塩見 鮮一郎公式WEB 掲示板

過去ログ3025 2017/1/10 2:09

▼世話係
インターバル
引きこもり症候群です。
寒いしね、
ウチが一番いいね。
老いた両親の世話とか、
嫁をからかったり、
孫を「かんぶくろ(紙袋)」に入れて、蹴マリにしたり。
妄想はどこまでもひろがりますね。

実際に在ったことしか書けないヒトは不思議ですね。
1/10 2:09

▼世話係
インターバル
引きこもり症候群です。
寒いしね、
ウチが一番いいね。
老いた両親の世話とか、
嫁をからかったり、
孫を「かんぶくろ(紙袋)に入れて、蹴マリにしたり。
妄想はどこまでもひろがりますね。

実際に在ったことしか書けないヒトは不思議ですね。
1/10 2:08

▼世話係
読書B
足柄道を進んだ官軍は、
御殿場線の小山のあたり「竹の下」で、激戦。
「互ひに討ちつ討たれつ、馬のひずめに川の如く流るる血を蹴揚げさせて、
両方へさつと引き除けば、死骸地に充ちて屠所(としょ)の肉の如し」

結果、官軍が負けて三島へ敗走、
箱根路を進んだ新田義貞も三島へ戻ると、
もうそこには足利方がいて、必死に斬り抜けた。
あとは京都まで逃げるしかない。

新田軍の敗北を知った諸国の兵は、
九州、中国、四国で蜂起し、都に迫ってきた。こんどは後醍醐があわてる番だ。
1/10 0:41

▼世話係
読書A
『太平記』第14巻のまちがいです。

どちらの上奏文を信じたらいいのか、
詮議は紛糾した。そこへ、大塔宮護良親王が
殺された情報が届いた。
後醍醐は怒ったが、かれが、尊氏の讒言のまま、子を鎌倉に渡したのだ。
新田義貞を大将にした足利討伐隊は、岡崎の矢作川など、東海道のあちこちで戦いをくりひろげた。
三島までは好進撃だった。新田は東山道の味方と合流するつもりで逗留した。
すぐに敵を追っかけたら、鎌倉を落とせただろうが、
「いたずらに居られけるこそ、不運の至りとは覚えたれ」と作者はつけたしている。

京から三島までが、新田義貞の人生の頂点であったか。
1/9 18:34

▼世話係
読書@
『太平記』第15卷、了。
鎌倉の北条高時を撃つために
後醍醐を盛り立てた武将たちが
ばらばらになる。

いよいよ足利と新田の対立である。
ともに源氏の血を引く。関東平野に隣接した
土地を持った。

足利は京都で六波羅を攻め、
新田義貞は鎌倉を占領した。

関係悪化の原因は、後醍醐の公平を欠く褒章にある。尊氏ばかりを偏重し、新田は所領地まで足利に奪われようとしていた。

ついに両者は、相手が謀反を企てていると
後醍醐に奏上した。
1/9 16:12

▼世話係
読書c
鎌倉に北条政権が復活したことに、
後醍醐は驚き、
足利尊氏にすぐに下向を命じた。
京を出るときは500騎だったが、功を得ようとするものが駆け付け、
弟の直義(ただよし)も加わり、5万になっていた。
鎌倉の時行は先んじて勝を得ようと箱根を超えたが、
各地で戦闘を重ねて、しだいに鎌倉まで
押し戻された。
雪の下にあった「大御堂(おおみどう)」で、
大名43人とともに自害した。
すべての死者の顔の皮がはがれていた。
勝利した尊氏のもとへ、一度は北条にしたがった
武家がもどってきた。
その権勢はますます強まった。
1/8 14:40

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