塩見 鮮一郎公式WEB 掲示板

過去ログ3274 2018/1/9 0:37

▼世話係
像の鼻
に、はしめがつくと、運上所。これが税関。
クイーンの塔になるのは昭和でした。
1/9 0:37

▼世話係
大阪の靴工
維新前後は、大阪渡辺村(西浜、西成の一部)が、日本一でした。
革関係の3割はここで扱われ、巨万の富が集まった。
新町などは大負け。
で、チャーリーを弾左衛門が呼び寄せた時、
渡辺村も、谷沢儀右衛門(やざわぎえもん)青年を王子の工場へ送った。
かれは勤勉によく学び、大阪にもどると、西洋鞣しをひろめた。
それで、西日本に、ひろく「茶利革」が流通し、第二次大戦後まで
つづいた。
1/9 0:26

▼茶利
それとも
山国でお米があまり取れない等から、部落の感謝のお米を食べていましたのか。
時々日本の社会で見つける、ルールの思い切った例外(女の天皇は基本的にないが時々あったとか、弾左衛門の存在とか、牛を殺す祭りとか聞いたことがあったような・・・)の一つですか。その地域だけの風習等。日本の好きなところの一つです。西洋はより頭が固いように思います。そういう例外に希望を感じられます。
チャーリー伝のお祝いの場に、例外的に、弾左衛門のお酒、お米を平民や武士にも頂いてもらおうかな。
1/8 20:00

▼茶利
横浜の税関のことでしたか
沢山の寺々の中で弾左衛門の配下の人々が火葬された寺のことでしたか。大阪の部落から1871年中に滝野川を訪ねてきた方の名前等でしたか。
あと、部落に対する差別がどのように「排除」であったことについてもっと詳しく知りたいです。
先程、先生の『被差別小説傑作集』の島崎藤村「山国の新平民」を読み終わりました。色々と参考になりました。お出入りの証として収穫の時においていく一束の新しくできた稲は、感謝のつもりでおいたと先生と長野の先生のお話から分りましたが、それが飾り用(儀式的)ではなく、本当に食べる用でしたか。また、その本の中に他に特に参考になりそうなものがあればそちらから読みたいですが、お勧めはありますか。
1/8 19:00

▼世話係
宿題について
あと2問ほどありましたね。
忘れています。
「帰って地図を見ればすぐわかります」と、言っていました。師がネ。
1/8 18:06

▼茶利
見えますよ
どうもありがとうございます。読解してみます。

だいぶ先ですが、聞いておきたいことがあります。
先生は8月4日(土)か8月5日(日)に、王子神社例大祭、ご一緒に行っていただけませんか。
私は両日行く予定です。(旧暦のずれをとりあえず無視したら)ちょうど8月に茶利革が初めてできるころに、工場の近くにそういう大エベントがあると、(何かの)良い場面になるのではないか、と思います。8月までにそこまで書いていく目標も立てられます。
一人でももちろん行けますが、可能であれば、是非、ご一緒をお願いしたいのですが。。。
わがまま弟子より
1/8 16:18

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