塩見 鮮一郎公式 掲示板
過去ログ4647
2025/4/7 11:07
▼滝川昭和の魅力こんにちは。
塩見先生。
文学を語るなどとてもそんな身分ではありませんが、昭和の“私小説”ジャンルが魅力的でした。また、プロレタリア文学も好きで、町工場の小説など、右肩上がりの日本の若者の描写から希望と夢をもらえました。
16歳で入った文学学校は、昼間カタギで働く顔を持つ(当時青年)大人と触れ合うことができ、刺激的でホッとできる居場所でもありました。
45歳の塩見先生は、メガネの中から理知的で鋭い眼力が光っていて緊張いたしました。ポストや年収で幸福度測るサラリーマンには知り得ない境地のギラつき。勝負師のお顔。ひとことで申し上げれば色気。余裕あるインテリジェンスとアドレナリン濃度の高さの合わさるオーラ。お目にかかりすぐに、特別な方だと空気でわかりました。元編集者でありプロの作家であられるなら、こちらとしては食い下がろうとズーズーしかったか思います。
青く情け無い17歳。並々ならぬハングリーで、闇堕ち崖っぷち、精一杯のテキ屋魂でした。
▼滝川素敵なK氏の残像を辿り…塩見先生へ
おはようございます。
コタニ先生は、チャーミングでした。
一度はカウントダウンを主治医に宣告され「親族がみな病室に集まったんだよ!オレ、もうこのまま死ぬんだって涙でちゃったんだ」とおっしゃって、奇跡の退院・執筆再開をされた講義でファイティングポーズをとられました。お痩せになられていましたが、二枚目で魅力的でした。聴講生から拍手がわき、コタニ氏をお慕いしていた皆も泣きました。
17歳の自分が、ふたりきりで上京したとするなら覚えているはずです。横浜の喫茶店ならあり得るか。
もうひとり大柄な美女も同行していたなら、薄らと腑に落ちるかも。
当時、自分が執筆した不倫ものを提出しまして感想や意見討論で、コタニ先生は照れておられました。自分は本当に生意気な高校生でした。
男とは〇〇しなければその女に本気ではない、のくだりに「できないなあ、コンプレックス持っちゃうよ」とコタニ先生。
シャイなその笑顔には華があったことを記憶しております。
※スチールは先日劇場で公開された拙作原作映画「ふたつの月に濡れる」(佐々木浩久監督)です。
https://i.imgur.com/mQqVTR7.jpeg Up 4/7 6:11
▼世話人昭和いまメディアで語られる昭和とはちがった昭和が
現れてきそうですね。
コタ二先生。知ってるようで、まったく知らないか。
結核でしょうね。
いまは癌ですが、当時は結核でした。
いたずらに過去を探ったようです。
すみません。
HP
▼滝川45歳の塩見先生へこんばんは。
同行してくださった方は、小谷先生(漢字が合っているか不明)ではないと思います。なぜなら、先生は体調が悪かった。
自分は制服姿で受講しておりましたとき、小谷先生は主人公が「便所で吐血する」ような短編ばかりをお書きになられていました。ガンで入退院を繰り返されていましたが、私が20歳を過ぎてからお葬式に伺いまし
た。
自分が寄稿した新日本文学に、塩見先生のお名前が載っておりました。
お恥ずかしながら、17歳の自分は生きるか死ぬかのマクベスさながら、内面世界に終始しており、お世話になった同行者男性が記憶にないです。
「不条理の申し子であるけれど、おめでとう!貴女は一生、ふたりの父と狂女の母をモチーフに書いてゆけば、食いっぱぐれないよ」と小谷先生から励ましをいただき、おおいにその気になっておりました。
https://i.imgur.com/8QiONK4.jpeg Up 4/6 21:52
▼世話人こんばんは芳紀17歳の君に聞きたいのですが、
こたえたくないか、面倒なら無視してください。
この欄の君の話に、Kくんは亡くなったとありました。
かれは、あなたと同行したKくんですか。
横浜の図書館運動をしていた?
HP
▼滝川こんな書店ポスターがありました塩見先生
養父と母の死化粧の書き物となりました。
https://i.imgur.com/2p1ZOOj.jpeg Up 4/6 18:21