塩見 鮮一郎公式 掲示板

過去ログ4613 2025/2/1 13:15

▼世話人
広島資料
寛永二年(1625)、広島藩は、広島城下には遊女屋、芝居小屋、見世物などを城下に設けることを禁止した。初代、長晟の治世時のことだ。豊臣時代の五奉行の一人、浅野長政を祖とする浅野家は前広島藩主、福島正則を他山の石として、徳川家を常に見据えて、治世を行った。藩存亡の危機であった赤穂事件も徳川家の意思を重んじて乗り切った。風俗統制も藩内の乱れを取り除くための施策だった。芸能は反体制的な性質を持つため、城下の人々の反発を意識しつつも、あえて、移転という手段を取った。幕藩体制の確立のための重要な施策であったのだ。

城下中島材木町にあった遊郭は宮島に移された。吉原のように大門を設けなくても島自体に遊郭を設けることで、遊郭の封じ込めを実現し、尚且つ、人の流通を促進する施策だった。広島藩の事実上の公娼制度だった。

宮島の遊郭は明治になり、忽然と姿を消す。明治政府の新社格制度で官幣中社とされた厳島神社に遊郭の存在を認めることはできなかったからだ。

宮島遊郭のあった場所が、今の町屋通りだ。

HP

▼祐佳
朱子学
寺子屋で学び、漢文の素読ができる子たちも多かったでしょうね。


▼祐佳
感謝、感激。
先生の的確なお答えに感動です。
さすが塩見先生。私が知りたかったことです。

誰でも参加できる寺子屋があったということは、部落の子どもたちの学習レベルは、かなり高かったのではないかと推測されます。
神戸宇治野村にも徳照寺という大きな寺があり、そこに立派な上田小学校が建てられました。
恐らくここが寺子屋だったのでしょうね。
明治初期の学校設立は、殆どが民費だったので、村民の拠出は大きかったようです。
部落が教育に熱心、かつレベルが高かったことは疑いないと思いました。
日本一の立派な小学校を建てた摂津の渡辺小学校も同様かもしれませんね。
江戸時代の渡辺村も調べてみようかと思います。(渡辺村については咲さんが詳しそうですね)

学ぶことは楽しいです。
識字教育などで部落の学習レベルが低いイメージがありましたが、明治初期や江戸時代はむしろ高かったことの一端を知ることができました。
ありがとうございます。


▼世話人
祐佳さん
勉強していますね。
受験勉強以外の無償の勉強は楽しいです。

江戸の部落の学習チーム、施設などのことでしょうが、
容易に語れません。
わたしに力がないのですが、老齢のなせる諦観でもあります。

農民とおなじくお寺でしょう。寺小屋です。
ある程度の部落には、大きな寺が必ずあります。

ほかに、浪人が雇われて読み書きを教える例は多く知りました。朱子学ですが、レベルは低くない。
数学の問題が、寺に飾られたりします。

最後の弾左衛門が今戸の囲いうちに、だれでも参加できる学校を作ったのは、はっきりしています。
直樹の息子もそこで勉強しています。

すみません、部落のレベルと農民の知識のレベルなどに関しては、
わたしの任ではない。
すみません。

HP

▼世話人
危機管理とは
蟻の一穴天下の破れ、といいます。
堤防が決壊することもあります。

たかが道路の陥没、と高をくくっていませんでした。
対応がおそくないですか。
国をあげて3日で解決する。

HP

▼世話人

まだ閉じこめられているドライバーがいます。
偶然です。
吸い込まれるように見えなくなった。
と事故に遭遇した通行人は言っています。

穴。
不思議な言葉です。
縄文語でしょう。
いろんなイメージが付着しています。
人体の表面にも空洞があります。
鼻の穴、耳の穴。など。

救済を待ちましょう。

HP

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