塩見 鮮一郎公式WEB 掲示板

過去ログ3357 2018/6/6 22:47

▼茶利
小説家になった日
その日、和室で、普段、家族四人が川の字で寝る三つの敷布団の上で、重い掛け布団をかぶって、一人、高熱で震えていた。
二人の乳幼児を育てながら寝不足なところ、生活が安定しないので、睡眠2時間を繰り返し、幸せのはずの、絶望に近い、仕事で命を削る日々だった。
仕事が入っていない時さえあれば、赤ん坊におっぱいをくわえさせながら、小説を書こうと、片手でワードに書き込む。それも、生きるためだ、と必死。
でも、書きたい言葉は英語なのに、10年以上、生活の中で耳に入るのは日本語しかない。
書こうとすると、会話も何でも不自然で、すぐに自分を責める。
イメージと言葉が全く繋がらない。
6/6 22:47

▼世話係
ママ談義
もちろん、維新以降には、すでにママという言葉は使われていました。
山の手の官員の家では、ママといいました。
でも、教室では言いません。
「うちのままが」などというと、蹴飛ばされています。
ええかげんにせいや。
ふたつの流れがせめぎ合うのが、日本の近代でした。
まだ、ママかおかあさんの、決着はついてないそうです。

ちなみに、つれは、「ママ」とは言いません。
6/6 0:19

▼世話係
おかん
いいですね、
東京山の手の女子高校生とデートしたとき、
おかんというと通じない。
もしかして10代ドリンカーで、御燗と、とりちがえましたか。
肌のきれいないい子でした。
こんなお嬢と離れにいると、「短命」ですかね。
6/5 2:12

▼世話係
はい、ママ
わたしはママと呼んだことがない世代でした。
占領軍が来て、ママになったのです。
根っから、ママが普通であったのとすこしちがいます。
日本チャチャチャなんて、絶対、いいませんし。

もしかして、「銀座のママ」が、否定的なメタファーだと感じられましたか。
ジジが、市民的なエゴにつらぬかれた「日本の家庭のママ」を賛美するはずもないのです。
受験、就活、婚活路線の推進者は、日本のママでした。
6/5 0:48

▼茶利
鮮ちゃんへ
鮮ちゃんに言わなくていいようなことですが、
銀座のママの中には、ママもいます。
心が通じ合う人の中には、兄弟に似ているから通じ合う人もいます。
「私の人生全てが、私からのメッセージだ」とガンジーが言ったのです。
鮮ちゃんのメッセージはよく聞こえています。
いまさら、反対のことを言っても、信じてもらえません。
早く戻ってきて下さい。
6/4 20:15

▼世話係
トーク小屋
6月7日、定刻。
『ダーク・メモリーズ』です。
『伊勢物語』は、76段から?
6/3 17:37

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