塩見 鮮一郎公式WEB 掲示板

過去ログ2386 2014/3/23 21:39

▼大魔神
困惑
ジンジンジンジン
大魔神!
ブリーフを新調するか
迷っている
3/23 21:39

▼岡坊
ありがとうございました。
とても、刺激的な本でした。
鏡花も興味がわきました。
3/23 18:07

▼SYUPO
はい
そうです。6日(日)の1時、代々木公園の噴水前に集合です。
*ス、スミマセン。偶然、岡坊さんの文章に割って入るかたちになってしまいました。削除していただいて結構です。
3/23 15:55

▼世話係
シュポさん、
6日でしたか、恒例花見。
3/23 15:49

▼世話係
以上です。
掲載を許可していただき、
感謝します。
下から上に読むことになります。
3/23 15:48

▼世話係
岡坊ノートD
戦後、「近代の超克」を訴えられず、宗主国アメリカの言いなりになった日本は、結局原発事故という、未曽有の、不可逆的な放射能汚染の地獄に突き落とされるわけである。戦後責任のなんたる重みであろうか。「明治維新と戦後の変わり身の早さ」は、日本人の特質として考えるべきであろうか。著者は否と答えてはいまいか。「これまでの歴史で、国家的な犯罪が不問にふされていただろうか。日本特有の無責任体質だと指摘する論者もおおいが、すこしまえの社会では、悪事をおかした者の首ははねられ、罪は係累にまでおよんだ」と、「すこしまえ」を強調し、明治の体質イコール日本の体質とすることに対して批判している。だからこそ、「近代の超克」を訴えればよかったと述べ、そして、今こそ「近代の超克」を訴えるべきだと言っているのだと思う。
江戸を考えることは、これからを展望する時の道標であろう。
戦後を生きた著者は、それらを他人事のように論じているわけではない。安保を闘い、マルクス、レーニンを読み、革命を熱望した経験を「すでに先人が経験して挫折した道であった。そのことをだれひとり語らなかったし、わたしもまた自己の行為をうたがう精神をもっていなかった」と自己軽侮している。さらに、林房雄や亀井信一郎との「読者経験はあまりに似ている。江戸の爛熟した文化などなかったかのように、かれらとわたしはかさなっている」と、悲しいまでに過去を振り返っている。むろん、いや、だからこそ、知識人に対する批判が誠実さをもって、伝わってくるのかもしれない。
他者を批判することによってしか成立しない正当性とは位相を異にしていると思う。
ここに至って、私は著者に聞きたいのである。なぜ、そのような西洋の思想を培ってきた著者が、江戸を再考するようになったのか。思想の転換点を教えてほしい。
 
            二〇一四.三・二十二
3/23 15:47

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