塩見 鮮一郎公式WEB 掲示板

過去ログ2385 2014/3/23 15:45

▼世話係
岡坊ノートC
一方、円朝と黙阿弥にたいしては、「新しい社会に必死にすりよっているのは、円朝も黙阿弥も変わらない」と断罪しつつも、「自分たちがどれほどの達成を後世に残したかわからないまま、コンプレックスをかかえて老後を送ったのは、わたしの遺憾とするところだ。時代の空気というのはほんとうにおそろしい。単純なことでも見えなくなる」と、両者への哀惜の言葉を忘れない。
江戸時代まで、庶民は、優れた物語を身近に見ることができたのである。浮世絵もしかりである。
一章は、江戸について詣造が深い著者の、明治からつづく現在の知識層とエリートへの呪詛であると、私はとらえるのである。このような呪詛は二章から五章まで貫いていく楔のようでもある。
特に、第三章近代超克ゲームで、小気味よいほどばっさりと切りつけている。
「明治の開明派知識人が唱えた欧化への努力、新政府による官僚組織の創設、軍隊の拡充、学制の整備などは、維新後、ずっと顕彰されてきたが、それらはすべて地獄へと続く道だった。(略)無残に破壊された国土を指で示し、足で踏みつけ、いまこそ「近代の超克」が必要なのだと訴えればよかった」
日本に輸入された「自由、平等、友愛」の理念は、所詮、共同体を捨てた近代個人主義の概念に縛られた自由であり、学歴社会、経済格差に縛られた平等であり、天皇を頂点とした排外主義の友愛でしかなかったのである。
3/23 15:45

▼SYUPO
岡坊さま
心に沁みる文章でした。充実した会だと思いました。
朝ふと気づいてみると、どなたからいただいたのか、バッグのなかにお菓子がいっぱい入っていました。やたら叩いたわけでは、ありません……。
3/23 15:44

▼世話係
岡坊ノートB
ふと思い出したのは『日本残酷物語』にある柳田国男の「山の人生」の一節、子殺しの物語である。
美濃に、妻を亡くした炭焼き男には実子の男の子ともらいうけた女の子がいた。しかし、炭は売れず、一合の米も手に入らなかった。飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、小屋でずっと昼寝をしてしまった。目が覚めると、ふたりの子どもが、大きな斧を磨いていた。「おとう、これでわしたちを殺してくれ」と言い、仰向けに寝た。男はくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくてやがて捕えられ牢に入れられた。間のぎりぎりの悲しみとあわせもつ美しさを庶民は語り継いでいたのだ。深沢七郎の『楢山節考』もまた同様であろう。これも、文字ではなく、口承を小説にしたと記憶している。
(余談になるが、本土があれほどの原発事故が引き起こされたにもかかわらず、まだなお、再稼働を推進する政府と世論がある一方、沖縄県は反基地闘争が衰えない。この精神力の強靭さは、古謡や物語、祭祀が残っているからではないだろうか。戦後、本土はすぐに親米になったが、沖縄は親米にはならなかった。基地容認派であっても、「カネを落とす国」としてしか、見ていない。実に冷めたものである。)
江戸に限らず、日本のいたるところで、近代以前はカネの問題を人々は真正面にとらえていたのである。人の心をとらえていく感性は、犯罪心理などと知ったかぶりをする学者よりも、ずっと優れている。いつからカネの問題は汚いとするようになったのだろう。カネにまつわる人間の哀れさを見たくないやましさが、或いは、カネに強欲な己の心が、カネの問題を見ないようなドラマにしあげていくのかもしれないとさえ、思うのである。
江戸時代の鋭いリアリズムを切り捨てられたことに、著者は坪内逍遥を代表として、痛烈な批判を浴びせている。「『怪奇のリアリズム』を、なぜ、いったんちゃらにして、へたな『当世書生気質』や『浮雲』のような地点から、明治の作家は再出発したのか」とみもふたもない。
3/23 15:44

▼世話係
岡坊ノートA
谷川は死者を思い出すことで、生者の驕りや目先の欲を律してきたとも、述べている。忘れっぽい日本人ではなく、少なくとも、明治までは怨念を忘れない日本人であったのだ。侵略の歴史を続けている欧米とは真逆の価値をもち、自己を律していく心を持っていたとは考えられないか。江戸の支配体系がどのようなものであったかは、私はよく知らない。だが、徴兵制とは違い、武器を持たない庶民が戦にとられることはなかっただろう。田畑が荒らされることはあっても、何百万人と殺されることはなかっただろう。年貢の苦しみはあっても、虐殺の苦しみはなかったのである。
著者は怪談を捨てることは、即ち「豊臣から明治までの他国を侵略してこなかった」日本の歴史に終止符がうたれたことを、黙阿弥や円朝をとおして述べているように思う。軍国主義へとつきすすむ明治の大きな転換点としてとらえている。
 もうひとつは、カネの問題である。著者は「資本主義がすでに誕生している。カネのために人殺しをする人物が、こんなにいっぱい登場する芝居は江戸期にしかない」「現在のドラマが背後にカネの問題があるのに、それを見ないようにして、友情や愛情や正義や家族愛を謳うのとは性格の違いがある」
 江戸期に資本主義経済の矛盾がすでにあり、しかも河竹黙阿弥を代表するリアリズム表現がすでにあったのだと、あらためて考えさせられるところである。人殺しにも、抒情もあり、さらに殺す側(犯罪者)の悲しさを描き出すことも忘れない。犯罪にはなんらかの理由があり、それは、下層の民ほど、社会のしわ寄せをうけることを、芝居のなかに入っていることに気づかせてくれる。
 このような芝居は、貧困にあえぐ人々の心を、どれほど揺さぶったであろう。また、カネで人々を抑圧する人たちの良心にも訴えたかもしれない。 
3/23 15:42

▼世話係
岡坊ノート@
『江戸から見た原発事故』によせて
                              岡坊栄

 まず、私が惹きつけられたのは第一章である。そして、この第一章が、全体の文明批判の底支えしているように思える。
円朝の『牡丹燈籠』は有名であるが、この書を読んだのは、恥ずかしながら四十五歳を過ぎた頃だった。三・一一から、二年が経っていた。二転、三転どころか、七転八転する面白さに夢中になり、そして、あらためて、「日本文学」の凄さを感じた。伏線のはりかた、登場人物の性格のかき分け、なにより、間近で場面を感じさせるような表現力は、現代の文学をはるかに凌駕していると思った。重層性がまるで比較にならないのではないかとも思った。話の筋は今もほぼ覚えている。それほど、印象が強かったのである。
 その円朝が変遷していく姿を本書は読み解いていく。ひとつは怪談話を捨てたことに注目している。「もはや怪談の時代ではない」と。明治が文明開化していくとき捨てたものは、江戸時代までえんえんと続いた人々の良心であったのかもしれない。
私ごとで恐縮だが、最近、昔話や伝説などに興味をもち、本を読むことが多くなり、幽鬼の世界が人間や動物の怨念を映し出していることに気づいた。明治以前までは、無念の死を忘れない精神をもっていた。
怪談のもっていた精神性について、少し長いが谷川健一の『魔の系譜』から言葉を引用する。「日本歴史の裏側に、もう一つの奇怪至極な流れがある。それは死者の魔が支配する歴史だ。(略)死者は生者ほど忘れっぽくないということを知らせるために、ことあるごとに自己の存在を生者に思い出させようとするかのようだ。(略)しかも、この場合、死者は敗者であり、生者は勝者なのだ。弱者が強者を、夜が昼を支配することがあっていいものか。弱肉強食が鉄則となっているヨーロッパ社会では考えられないことだが、敗者が勝者を支配し、死者が生者を支配することが、わが国の歴史では、れんめんと続いている」
3/23 15:39

▼世話係
だんだん
まっとりとした空気になりました。
対立する意見も包み込んだ。
悪くない。(口癖)
3/23 13:11

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