塩見 鮮一郎公式WEB 掲示板
過去ログ2306
2014/1/12 2:29
▼世話係すみません、下から読んで。眠れそうにないので、
思い出すままのことを
書きつらねます。
まさこさんは、新大久保の「箸屋」さんのお嬢さんです。
歌舞伎町に「割りばし」を提供する会社です。
あなたがたも、お世話になってるでしょう。
彼女はバイトで「大陸」で働いていました。
いまの、立派な「大陸」ではなくて、
風林会館のそばにあった6、7人しか入れない
ちいさな餃子屋でした。
どういうつなかりか知りませんが、
ここには俳優座の人がきました。
まさこさんは千田是也の手伝いなどしていましたが、
俳優座が先か、「大陸」がさきか、聞いていません。
彼女は、いまや大御所の橋本某とも当時は親しくしていて、
わたしと会う場を設定したりしていました。
わたしと橋本某と会っても、酒を飲むしかほかに
なにもすることないてせすよ。(ここでの会話の内容はおぼえていますが、内緒にしましょう)。
で、会計はまさこさんが持つわけです。
でも、いい雰囲気でしたよ。
いまはどこを探しても、こんなふうに、
「馬鹿」を楽しむ人はいない。
またそういう人間関係を持ちたいですね。ぐすっと、人と人とのあいだに空間があるのがいい。
関田稔はそういうことを願っていた。
ただの酒飲みではあったけど、
ただの女たらしではあったけど、
一点の志は失わないで、この世に「さらば」を告げたのではないか。
泣きたい。
1/12 2:29
▼世話係すみません、下から読んで。眠れそうにないので、
思い出すままのことを
書きつらねます。
まさこさんは、新大久保の「はし屋」さんのお嬢さんです。
歌舞伎町に「割りばし」を提供する会社です。
あなたがたも、お世話になってるでしょう。
彼女はバイトで「大陸」で働いていました。
いまの、立派な「大陸」ではなくて、
風林会館のそばにあった6、7人しか入れない
ちいさな餃子屋でした。
どういうつなかりか知りませんが、
ここには俳優座の人が4きました。
まさこさんは千田是也の手伝いなどしていましたが、
俳優座が先か、「大陸」がさきか、
聞いていません。
彼女は、いまや大御所の橋本某とも当時は親しくしていて、
わたしと会う場を設定したりしていました。
わたしと橋本某と会っても、酒を飲むしかほかに
なにもすることないてせすよ。
で、会計はまさこさんが持つわけですわ。
でも、いい雰囲気でしたよ。
いまはどこを探しても、こんなふうに、
「馬鹿」を楽しむ人はいない。
でも、またそういう人間関係を持ちたいですね。ぐすっと、人と人とのあいだに空間があるのがいい。
関田稔はそういうことを願っていた。
ただの酒飲みではあったけど、
ただの女たらしではあったけど、
一点の志は失わないで、この世に
「さらば」を告げたのではないか。
泣きたい。
1/12 2:20
▼世話係下から読んでください。わたしが関田稔と、最後に親しく言葉をかわしたのは、
『吉原という異界』を出してすぐのころだ。
社会評論社の松田社長は、わたしとはながいつきあいだ。20歳のころからか。それなのに、なぜかかれの書店から本を一冊も出してない。
その松田君くんが、
吉原についての講演を企画した。中小出版社があつまってくる。そんな会だ。
これも断れないケースである。
行くと、そこへ関田稔(みのる)がきていた。
何年ぶりかなあ。
並んで座り、ぺちゃくちゃしゃべった。
京都の在日の映画をつくった監督もきていて、
こんどは吉原をテーマにしたいので、相談に乗れといわれた。アマゾンかグーグルか、そんなところがカネを出すみたいだったが、
バブルがはじけて、終わったみたいだ。
で、その会で関田と親しく飲んだのが最後になった。いつもそうなのだが、わたしがそろそろというと、なんだかさびしそうにするのだが、
かれのほうがわたしよりもはるかに酔っていて、
もう一軒行っても飲めないだろう。
その後、うわさはときおり聞いていたが、会って酒を飲むことはなかった。
ケータイで連絡を受けて、いつ死んだのかと質問したが、
飲み屋の狂騒にまぎれてはっきりとしなかった。
享年すらわからない。先妻の娘が講談社で一、二冊、本を出している。でも、それも30年もむかしのことではないか。
関田さんが亡くなったそうですと、わたしから伝えたい人が、もっと早く去っている。老年とはこういうことか。
1/12 1:41
▼世話係下から順にお読みください。かれは「せりか書房」の営業をやっていたが、
自分で出版をやりたかった。1980年ごろの話だ。
わたしは筑摩から『巫女たちの夏』を出したりしていた。
最初の出会いはもう忘れているが、なにか書きますかといわれて、わたしは『言語と差別』を書いた。
かれが起こした出版社は「せきた書房」といったが、仲が良かった「まさこさん」の実家が新宿に在って、彼女からの資金援助を受けた。なゆの母とまさこさんと「アンダンテ」の奈津ちゃんで、三女会を結成して、新宿をあらしまわっていた。
わたしは家で『浅草弾左衛門』を書いていた。売れるのかどうか、わかりもしない長編に3年もついやしていた。
はじめ、『ハルハ河幻想』は批評社が出す段取りだったが、批評社が躊躇したので、すぐに「せきた書房」で、関田稔はやりたいといった。
こういう意気に感じる出版社が日本で生きていければいいのだが、高度成長期は、まともに思考する人間を邪魔者あつかいにした。
でも、愚痴も言わないで、わたしと関田は飲み、女たちも飲み、とくには近場に行って、
まさこさんと詩人の長谷川某は混浴したりして、
羽目を外しまくった。
わたしが関田稔と親しく言葉をかわしたのは、
『吉原という異界』を出してすぐのころだ。
1/12 1:08
▼世話係推敲をしているとケイタイ。黄金街から電話がきた。
なんで夜分に失礼な。
いつもなら出ないが、知ってる人の名からの連絡だった。
それで出た。
うーーーん。
辛い話だった。
つらいのは、この話をだれかに送れないことだ。
これが50か40か30の歳なら、おお騒ぎして
悲しみをまぎらわせることができたのに。
もうだれも彼を知らない。
この掲示板に来る人は知らないだろう。
(知ってるか、ソフトボールチームの人は)
ともかく、なんどかれと酒を飲んだか。
相手は肺がんになっても、
わたしと盃をかわしていた。
新宿御苑のそばの、かれの「元奥」がやってたバーでも飲んだ。
酔って死ぬのはかれの本望だったろう。
だが、そんなに天はやさしくない。
いくら飲んでも死なない。
わたしのことをいっているのではない。
かれは青梅の老人ホームのようなとこにいても、新宿に月にいちどは飲みに来た。
えらいよ、真似できない。
年金をためて、パッと、なべさんで高いニッカをキープして、酔いつぶれると、ホテルかタクシーだろう。
わたしと飲みたかったはずだが、かれはやさしい。わたしが仙人になりたがっているのを知って、そっとしておいてくれた。
たしかにふたりで飲むとエンドレスだった。
1/12 0:41
▼世話係いいですね。がっこ、深川でやりますか。
1/11 22:53