塩見 鮮一郎公式WEB 掲示板

過去ログ2101 2013/6/13 18:11

▼世話係
やはり
葉が。
明日、医者に。
6/13 18:11

▼世話係
三原の霊力
は、ここまでです。
あと、最終章「直助のいた屋敷」がすこし。
二回ほどで終わります。
これは実話ですが、「三原」の不思議な因縁を、つくづくと感じました。
「三原」の霊を使用して、家老は裏切りの家来をこらしめたのでしょうか。
6/12 23:40

▼世話係
14−7
「斬れ、直助。おめえ、ふるえてやがるのか」
 庄左衛門は相手をにらみつけて挑発した。ながく話しているうちに、こんやこそが好機だとわかった。腹の傷がこのまま癒えてくれるにしても、この機会をのがして、あと一年、またあと一年と生きて行ってどうなる。生きて、いろいろなことを知るたびに、ますますむかしの裏切りを後悔するだけだ。ますます日々がつらくなるだけだ。いつ本名が世間に知られるかとびくびくしたまますごすのか。そのうえこんどは、あのとき、あの夜、なぜ死ななかったかと、直助におそわれた一月十五日の夜を思いだしてくやむことになる。
 「直助、おれを冥土(めいど)に送りやがれ」
と、目でうながした。
「ふん」
浅黒い顔のなか、ふたえの目のおくにはおそれがあった。こわいものを見てしまった恐怖があらわれていた。右目のしたのあざが、いまは顔の半分にまでひろがり、赤黒くみにくかった。
「やれねえのか。びびりやがったか」
 「うるせえ医者だべえ。死ぬまぎわまでぺちゃくちゃと説教しやがる。みっともねえと思わねえか。さ、これでしめえだ」
 手入れのゆきとどいた備後三原の切れ味はおどろくほどであった。皮膚をやぶり、肉をさき、心臓をまっぷたつにして、背骨に達した。あたたかい血が滝になって噴出した。
「ほれ、もう口もきけめえ」
という声を最後にきいた。
6/12 23:33

▼咲
ちょっと見えました
今週いっぱい、やります、解放されたい〜。そしたら小説を。
引っ越しが落ち着いたと思ったら、今度はパソコンが、、、あきません、7年過ぎましたから、もういいかな。
MacBook Air にするか、VAIO Pro にするか、どちらにしろ、慣れるまでかなりたいへんそうです。うー。
6/12 18:45

▼世話係
14-6
自分は生きたがっていたのではなく、死にたがっていたのだと気がついた。
 「ああ、あなた、おまえさん。そんなことをいわないで、これまでどおり生きてくだしゃんせ。やさしくて誠実なお医者さまと世間ではもうしておりまする。庄左衛門さま。庄さまがいなくなれば、わたしはもう生きてはいけません」
お多可が腰にだきついてきて、心情のこもった声で訴えた。言葉ではいいたりないのだろう、はげしく身もだえした。月光のせいか、それとも出血のせいか、顔がまっ青であった。ただ目だけが、黒く光った。あのなにひとつかくしごとができない目に月の光がたまっていた。見ていると、またしてもそのなかへすいこまれておぼれそうだ。
 「ああ、おめえ」
と、庄左衛門はうめき、
 「これ、直助。よいか、お師匠をこれ以上、傷つけねえであげてくれ。あやつがなんといおうと、殺(あや)めたりはしねえでもらいてえ」
 「もう御託(ごたく)はききあきたべえ。くそっ!」
といいざま、直助は右足をでたたみをとんとふむと同時に刀をふりおろした。
 「うう、む」
 刀は肩をたたいた。があんと体はゆれたが、筋肉が刀剣をはじきかえした。庄左衛門はうなりながら、
 「よし、おめえは肝っ玉があるようだが、そんな、なまくらの刀じゃいたくてたまらねえ。それ、床の間に三原があるではねえか。あれでやれ。あれは、大石内蔵助さまがくだされたもの、いや、兵糧(ひょうろう)のたしにしろとわたされたものを、おれがくすねた代物だ」
 「そうだ、こいつがここにあったのだべえ」
 直助は三原に飛びつき、おのれがもってきた刀は畳になげすてた。
 「さあ、斬れ。大夫の刀で死ぬのこそわが本望。これぞ刀の霊力だ」
庄左衛門は両の腕をよこにのばして、胸もとをあけた。寝巻きはみだれて、血のしたたる肌が露出した。
 「直助、や、やめなされ。やめてくだされ。ほれ、このとおり」
お多可が両手をあわせて下男に命ごいをした。
 「斬れ、直助。おめえ、ふるえてやがるのか」
6/11 23:28

▼世話係
14-5
「たしかに、直助、おれは赤穂藩の浪人だ。おめえの見た仏壇の位牌、あれはおれのおやじなのだ。おやじの死んだのが元禄十五年の極月なのは、おれの名が四十七士のうちになかったのを知って落胆したからだ。おれを恥じて、小山田一閑という律儀なおやじは、まだうごくほうの手で刀をつかみ、喉をついて死んだ。そのこと、ずっとあとになって知り、万屋で仏壇と位牌を買って父をまつったのだ。毎年命日のおおみそかに、正覚寺の坊さんにきて念仏をとなえてもらうのはそのためだ。直助、わがまわりの者はみんな死んだ。おれは、むかし、ある時期、もっと生きたいと思った。死にたくなかった。しかしいまでは、生きるためには死なねばならねえときがあると、よおくわかった。おれのまわりのかたがたは、みなさん、かしこかったよ。赤穂藩のご家老の子の岡林杢之助(おかばやしもくのすけ)さまというのは、討入りに参加もしてねえのに、親戚に迷惑がおよんではならぬと、十二月二十八日に死んだ。おれのおやじが、その翌日だ。翌年の二月四日、四十七士が切腹したのは、いまじゃ知らねえ者もいないよな。そのあと六月十八日には、小野寺十内さまの妻・丹さまが京都で自殺なされた。このほかにも、ずいぶんとおおくの者が死をえらんだ。直助、ほんとはな、おれもずっと死にたかったのだ。世間がおれのことをどのように悪しざまにいったか。裏切り者だの泥棒だの武士の風上におおけねえ野郎だのとあざ笑っているのを知りながら、それでも生きさらばえてるというのが、どんなにつれえか、それくらいのこたあ、直助、おめえにだって想像がつくだろう。おれは死ねなかった意気地のねえ野郎だ。死ねないまま年月をかさね、ちょうどことしで、大石内蔵助さまの享年とおなじになった。四十五になった。あの元禄十五年の大石さまは、どうしてどうして、堂々として沈着であられた。それを年の功だと思っていたが、おのれが同年まで生きても、ちっともしゃんとはしねえ。おれはわけえころのままで、ああでもねえ、こうでもねえと、ひとりぐちぐちと考えているだけだ。あびるほど酒をのんでわれをわすれることしかできねえのさ。ああ、おれはもういいのだ。やってくれ、直助。てめえの最後の奉公だと思い、ひとおもいにやってくれ」
話しているうちに気分がますます高じてきた。自分は生きたがっていたのではなく、死にたがっていたのだと気がついた。
6/10 23:36

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