塩見 鮮一郎公式WEB 掲示板
過去ログ2042
2013/4/13 9:42
▼岡坊ねえ。油断も隙もありゃしない。
災害は忘れぬうちにやってくる。
のほうが、正しいかも。
4/13 9:42
▼世話係一度きたらしばらくは、
という、
昔のセオリーは通用しなくなったのですか。
4/13 9:35
▼岡坊阪神淡路とよくにた時刻で。ガガガガガとなる地震音は慣れないですね。
実家は牛舎も無事でした。淡路全体の被害も少ないようで。
やっぱり、死者と倒壊を考えてしまうのですが、東日本大震災以降、原発事故の不安も増えて。
いやなものです。
ありがとうね。
4/13 9:00
▼わかけん東京は揺れなかったけど、携帯の緊急地震速報がビービー鳴りました。
震度6は95年以来初めて?
びっくりしたでしょう。
今のところ怪我人8人と報道されてます。
4/13 8:43
▼岡坊地震揺れの時間が短いと、被害は少ないね。
4/13 6:57
▼世話係7ここまでくると、泉岳寺までは一里もない。
早く行きたいが、おのれは行くことができるだろうか。主君・浅野内匠頭の墓はひろい境内の南の丘にできた。討ち入りまえ、そこでの法要に庄左衛門もいくどか参列した。背後に樹木ががうっそうとして、しずかな場所である。大石内蔵助さま四十七基の墓は、その主君の墓をとりまくように立てられたそうだ。
「あっ、こりゃしまった」
水たまりのくぼ地に高下駄の歯がふかぶかと入りこみ、庄左衛門はつんのめった。両手をよこにして泳ぐようなかたちになったが、やっと踏みとどまった。もめんの足袋はもう泥だらけである。
品川の駿河屋で父と姉にいとまごいをして、本所林町の道場にもどると、木村岡右衛門(きむらおかえもん)さまがきていた。倉橋伝助(くらはしでんすけ)とむかいあって火鉢にあたりながら憤懣やるかたない顔をしている。
「なにか」
と、思っていると、瀬尾孫左衛門(せのうまござえもん)と矢野伊助(やのいすけ)の両人が脱盟したという。
「瀬尾さまが」
と、半信半疑で庄左衛門はききかえした。京都屋敷の留守居役だった小野寺十内が江戸へ下向したとき、従者に選ばれた人だった。きのうの深川の波勝楼でも、大石家の譜代の臣として、まえのほうにすわっていた。
「そうだ。瀬尾も臆病風に吹かれたようだ」
と、かつて百五十石だった木村岡右衛門はにがりきった顔で呼び捨てにした。瀬尾孫左右門が五十石取りでしかなかったので見くだしたいいかたになる。藩もなくなり石高(こくだか)とも無縁になったのに、まだ上下はきびしくまもられていた。
「命がそんなに惜しいのか」
倉橋伝助がつばでも吐くようにいった。商家の番頭のなりをしているのは、吉良邸の偵察から帰ってきたばかりなのだろう。庄左衛門のすがたを見るや、
「小山田、おやじに会えたか。おい、おめえさんも里心がついて、ははは、まさかびびったりはしねえよな」
と、にくまれ口をきいた。
倉橋伝助は浅野内匠頭の近侍(きんじ)の小姓(こしょう)をしていたくらいだから顔立ちはよい。物腰もやわらかで、おかしなことをしてよく人を笑わせていたが、堀部安兵衛に剣をおしえられて腕があがるにつれ、しだいに横柄になり、ことあるごとに浅野内匠頭から拝領した刀・広国を見せびらかして自慢するようになった。
「おい、おい。人のこたあ気にしなくてよいさ。てめえの肝っ玉の番をしてるがよい」
4/12 8:47