塩見 鮮一郎公式WEB 掲示板

過去ログ2040 2013/4/8 12:53

▼咲
きつい
求塚は、きついです。ほんとうの闇です。男は関係ない、亡者は消えた、でも消えない、女の罪の意識は。闇です。
女の中にある闇を空洞を、それが罪だというのか、いや、自分で自分を呪っています。
古墳に行っても大丈夫かと、ちょっとひるみましたが、行きます。……ほんとに大丈夫かいな?
4/8 12:53

▼世話係
3
すみのほうに馬場と弓道場があった。浅野内匠頭と正室の阿久里(あぐり)さまは、元禄十四年(一七〇一年)三月十四日までは、ここでおだやかな日々を送った。
庄左衛門は見越しの松をながめながら往時を思いださずにはいられない。大石内蔵助らもまた泉岳寺へむかう途次、東本願寺のうら手を通り、そこから屋敷のほうをなんどもふりかえったという。
一行四十七士が通る十日ばかりまえに、庄左衛門はおなじ道を品川の駿河屋にむけて歩いていた。深川の波勝楼のあつまりの翌日、十二月三日のことで、父の一閑にいとまごいを告げるためであった。汐留橋(しおどめばし)から東海道へ出ると一時(いっとき・二時間)ばかりの距離だ。はやる心をしずめ、父になんと話せばいいのか、そればかりを考えていた。
駿河屋の離れ座敷に入ると、屏風(びょうぶ)からそっとのぞいた。冬のさむい日に庭でたおれて以来、中風(ちゅうぶう)で半身付随になったままだ。
 「おお、ひさしぶりだな、庄左衛門」
父はすぐに息子の来訪の意味を察した。感情がたかぶり、ふるえる声であった。はや、なみだをうかべていた。
「お父上」
まくらもとに正座した。
「ごくろうだな」
といい、あとは、うんうんとうなずいている。なにもいうことはなかった。
「まもなくか」
としか父はたずねなかった。親・兄弟・妻子にも話してはならないと大石内蔵助が厳命していることぐらいは察していた。まして決行の日は極秘だ。息子がいえばきくし、いわないのなら問わないつもりでいるのがわかった。
「はい」
とだけ、庄左衛門はこたえた。明後日の夜半でござりますといってもよかったが、知ると気持がたかぶるだろう。老人にねむりはこなくなる。
一閑はうなずいて微笑した。
死別を悲しむよりは、ついに忠義をはたせるときがきたのをうれしがっていた。
 顔のしぶ皮には、縦横にふかいしわがきざまれて涸れ谷のように見えた。八十一になっていた。庄左衛門は、父の五十五のときの子で、ずいぶんとおそい子である。それだけでもかわいい。まして父よりも二十ほどわかかった母が庄左衛門が五歳のときに病死したので、さらに溺愛した。
 読み書きから始めて四書五経を父がみずからおしえてくれた。山鹿素行の話もよくでたが、一閑はなかなか医術にも造詣がふかかった。
4/8 3:15

20412039

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