塩見 鮮一郎公式WEB 掲示板

過去ログ2039 2013/4/6 18:54

▼世話係
株価が
上がるのを一部の人はよろこんでいるが、
あるいは「にんまり」としているが、
実態を伴わない高騰の最後の付けは
国民に回ってくる。
差額を税金で埋める。
いま儲けている人は、われらの税金を
掠め取っている。
そういうことではないだろうか。
4/6 18:54

▼蜘蛛
咲さん そうです
その橋が海辺橋です。
実感出来て、すごく、いいですよねぇ。

咲さん、言い忘れていましたが、
紀伊国屋文左衛門のお墓も、銭湯の20M位先の左側にあります。
地震で玉垣が崩れ、いまだ修繕されず立ち入り禁止のままですが、道路から見えます。
4/6 16:45

▼世話係
海辺橋のつぎ上之橋
上之橋はいま
埋め立てられていますね。
仙台掘りの河口自体が地面の下ですか。
4/6 13:37

▼咲
海辺橋!?
家の近くかも、あれかな。三角屋敷の場所は、蜘蛛さんに教えてもらいました。名残があります。私の家のところも、かくっと道が曲がっていて、蜘蛛さんからもらった昔の地図を見ると、わかるんですよね。場所は記憶しています。
ところで、「待つ」って不思議です。能動的じゃないことばだなと思っていたのですが。あるとき突然、待っている自分にきづくのです。きづいたときには、もう、だいぶん待っていたのです。「待つ」におそわれるのは女ですね、昔も今も?
4/6 12:38

▼世話係
補足
そろそろ半分になりました。
つづけます。
14日です。「あなた。どこへまいられる」
と、お師匠がきいた。
 「うむ、きょうじゅうに行かねばならぬところを思いだした。夕ぐれまでにはもどるつもりだ」
 先生は敷居をそとへまたいだ。
 「ま、まってくだされ」
 「いや、せいておるのだ」
というや、右ではなくて左のほうにかけだした。
 「あれ、あなた、どこへまいられる。いったい、どうなされたか」
と、お師匠がさけび、つづけて、
「ああ、あやしいこと。寺町や富岡八幡さまならば右。左に行けば隅田川に永代橋、そのさきにゃ、なにがある。こりゃたいへんだ」
と、泣きそうな声になった。

飛び出した先生の視点で、「泉岳寺」です。
4/6 9:36

▼世話係
また1から番号
八、東海道泉岳寺

 つるつるの頭に山岡頭巾をかぶり、庄左衛門は仙台堀の岸をいそいだ。
荷揚げ場には、菰(こも)の包みがつみあげてあるが、ひところにくらべると閑散としていた。蔵のかわりに町家がふえ、人夫のかたわらで子たちが遊んでいたりする。
河岸にそった雪どけの道を、四、五町もいそぐと、隅田川にぶつかる。ここまできて、海辺橋のつぎの橋があり、それが上之橋(かみのはし)という。仙台堀をすすんできた荷船は、この橋をくぐって、両国方向か鉄砲洲のほうへわかれる。仙台堀に入ってくる船もおおく、ここでもみあっている。
 庄左衛門は上之橋の盛りあがる橋板をじっと見つめて赤穂の義士を思った。もう夜が白じらと明けて、十二月十五日になっていた。黒の小袖は血でよごれ、股引には裂け目、脚絆(きゃはん)とわらじは泥にまみれている。浪士たちはつかれきっていたが、顔ははればれとしていた。それから十数年後、かれらは忠臣と呼ばれ、きらびやかな衣装をまとい、緋ちりめんのたすきをかけ、えりには「大石内蔵助良雄」と墨書した布をはりつけている。りりしい顔に化粧までして、歌舞伎の大舞台に勢ぞろいして喝采をあびる。
四十七士と人はいいならわしているが、「赤穂四十八士」といってみた。あの仲間に、「小山田庄左衛門」と胸に記した男がひとりくわわれば、四十八人になる。あれを見よ、あれが小山田一閑(おやまだいっかん)の息子よ、あっぱれ、親子二代の忠義者と江戸っ子はほめたたえる。
 「なぜそのように有終の美をかざれなかったのか」
 焦燥感がじりじりと心をかじった。
 庄左衛門は十八年ほどおくれて、仲間が歩んだ道をよろめきすすんだ。上之橋に背をむけて隅田川の左岸をくだった。永代橋までくると、味噌あきないの乳熊屋(ちくまや)がある。ここの主人の竹口作兵衛は俳諧をたしなみ、宝井其角(たからいきかく)のところへ出いりしていて、浪士の大高源吾(おおたかげんご)と知りあった。十五日早朝、討ち入りのうわさで起こされた主人は、引きあげの一同が永代橋をわたると知ると、すぐに甘酒粥(あまざけがゆ)を用意させ店さきでふるまった。
庄左衛門は堀部安兵衛のところで、なんどか竹口作兵衛の名を耳にしていたけれど、面識があるわけではない。むこうも庄左衛門を見てもわかりはしない。
4/6 9:27

20402038

掲示板に戻る