塩見 鮮一郎公式WEB 掲示板

過去ログ2037 2013/4/5 8:59

▼世話係
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三、三角屋敷

 きたないなりの子が走ってくる。
「先生、こんにちは」
と、大声であいさつをする。
庄左衛門は黒い無地の十徳(じっとく)に、ちかごろ流行(はやり)の切付雪駄(きりつけせった)をはいている。口の左右に垂れたひげが見えなくても、すぐに医者だとわかる。
「ああ、こんにちは。米つき屋の国丸だな。手習いにきたか」
と、しかたなく言葉を返した。相手が頑是ない子でも、わずらわしい。
ひとりになりたかったので、万屋からのむかえの者に、
「おめえはさきにもどって、旦那に、『先生はすぐおいでです』というがよい」
と、くすり箱をもたせたばかりだ。
 毎年、十二月になると気がおもくなる。きょうは、なん日だ、十二月の二日か、六日か、ああ十四日がついにきたのかと日をかぞえ、いろいろなことが頭に去来する。年月がすぎるとわすれることがおおいのに、ますますつよく思いだされることもある。
河岸にそった道である。
一陣の風が吹き、砂ぼこりが庄左衛門の顔にぱらぱらとあたった。やなぎの枝がおおきくゆれた。荷足船(にたりぶね)の船頭が、かめが甲羅にもぐりこむように首をちぢめた。厚手の刺し子や半纏(はんてん)をはおっているけれど、下半身はいずれもふんどし一丁、ふとく黒い脚がむきだしだ。
運河は仙台堀(せんだいぼり)といった。
東北の伊達藩(だてはん)が作ったからとも、その蔵屋敷があるためにこの名になったともいう。三十数年まえ、まだ元禄のころ、松尾芭蕉が奥の細道に旅立ったのが、この河岸からだった。杉山杉風(すぎやまさんぷう)の採茶庵(さいとあん)のそばから船に乗り、隅田川をさかのぼって千住大橋でおりた。
当時の川幅はもっとせまかったというが、庄左衛門が万年町(まんねんちょう)へ越してきたころには、二十間(三十六メートル)もある堂々とした運河になっていた。対岸には紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)の別邸があった。大名屋敷にまけないほどのおおきさで人びとの度肝(どぎも)をぬいたが、いまは下総関宿藩(しもうさせきやどはん)の下屋敷になっている。
落ちぶれた文左衛門がまだ生きているのかどうか。深川の地に隠棲していると耳にしたが、どこの町内に住み、だれと暮らしているのか。小金(こがね)はもっているのか、それとも、食うに事欠くほどにおちぶれているのか。もう老人だから、どこか病んでいてもおかしくない。
4/5 8:59

▼ささ
うーん
池袋駅というのがそもそもあり得ないらしい。
神田→新宿→高田馬場から西武新宿線の予定で、なんで池袋?

ああ、情けない。
ほんと、すいませんでした。
4/5 1:11

▼世話係
わたしもうろついていました。
新宿駅でのことでしょ。
深夜バスで帰宅しました。
じじいは夜遊びがすぎると、
いうことか。ま、また遊びましょう。
4/5 0:53

▼ささ
池袋で、はぐれてしまいました
もっと、がっちり先生につかまってればよかった。
でも、一生懸命探したのに。
まあ、私なんぞが心配するのはおこがましいかもしれませんが。
……せっかく先生といっしょだったのに
先生、大丈夫ですか?
なんか、支離滅裂ですいません。
4/5 0:36

▼蜘蛛
けっころがし
はい、「三角屋敷」のお袖ちゃんとお伊予ちゃんの話でした。
4/4 19:13

▼世話係
どうぞ
いらしてください。
4/4 12:58

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