塩見 鮮一郎公式WEB 掲示板

過去ログ2008 2013/3/3 9:43

▼お城大好き
寛永江戸全図を見ながら
面影橋から宿坂を登って、高田一丁目を右に折れ目白台公園で田中邸を覗き二丁目で路地に入り不忍通り清戸坂を下って護国寺で坊さんの話を聞きました。氷川神社・南蔵院・目黒不動金乗院も寄りました。勤労福祉会館の郷土資料館は今年移転だそうです。
3/3 9:43

▼世話係
33
「ごめんぐだせえ」
 庄左衛門は長屋の戸口でいった。ちいさい声だときこえそうにない。声をはりあげたとたん、腰障子がなかからがらりとあいて、おかみさんのちいさい体があらわれた。これは先生、ありがとうございます、と歓迎されると思っていたのに、おしなの対応はにべもない。
 「なんだ、万年町の中島先生。なんの用だ。呼びもしねえのになんできた」
 「たー坊を診てやりてえ」
 「なに、年の暮れだ。これまでのくすり代をとりにきたのだろう。わざわざきてもなにもねえ。骨折り損のくたびれもうけというやつだ。うちにゃ貧乏神がいすわりやがって、もう銭もねえし、米もねえ。あげる大根すらねえ」
と、みじかい腕をふりまわしてどなりつづける。
 「おれはもうごめんだべえ。ほら、これ」
と、直助がくすり箱を庄左衛門へ押しつけて、いまきた道を取ってかえした。継ぎのあたった綿入れの背中がいやにおおきく盛りがっていた。
 「なににおこってやがる、気みじかな野郎め」
と、庄左衛門はつぶやき、受け取ったくすり箱をぐいと、おしなの顔につきつけ、
 「どけ、病人を診るのがおれの仕事だ」
と大声でいい、なおも通せんぼをするのをおしのけた。
 たたきには足の踏み場もないほど、きたない履き物が散乱していた。あがりがまちには黒すんだ雑巾があるが、だれも足うらをふきはしないのだろう、いや、ふくとかえって泥がつくのか、板の間には大小無数の泥足のあとがついていた。かまどのそばで、十三になる長女が湯をわかしていた。九尺二間のうら長屋だから、おくには四畳半のひと間があるだけだ。そこに茂七のちいさい体があった。船大工の仕事を休み、みなを呼びあつめたらしい。うちわ太鼓をたたいている小男は、茂七の親戚のようだ。みんな四尺(一三二センチ)ほどの背たけしかない。
 壁にくっつけてうすいふとんがある。一枚のふとんに三人の病人が寝ていた。
 「ごめんよ、茂七」
と、父親にあいさつして、たー坊のそばへ行った。
 「すまねえが、先生にゃ、もう用はねえ。たー坊のやつにいるのは、坊さんと白輿屋(しらこしや)だ」
と、茂七がぶすりといった。白輿屋は棺おけ屋のことだ。そのとおりだろうが、かまわずすわって、
 「これ、たー坊。どうした」
と、のぞきこんだ。
 あえぐように息はしていたが、瞳孔は拡散していた。
3/2 8:56

▼世話係
京成がなぜか山の手線内へ。
「京成は浅草への乗り入れを断念、合併した筑波高速度電気鉄道の免許線を活用し、日暮里経由で上野公園(現・京成上野)に乗り入れた。」とか。大正の京成疑獄。
3/2 7:40

▼蜘蛛
お袖ちゃん、よかった
はい、右に左に行ったところに深川稲荷あります。
今年も初詣に行きました。
その近辺に相撲部屋も4つあります。
面白いですよ。
3/1 12:12

▼咲
ありがとうございます
岡坊さん、今日は、仕事しないで、本を片付けます……。来週に備えないと!
霊厳寺を過ぎましたね、高橋に。わたしんとこから、蜘蛛さんとこへ……。
3/1 10:30

▼世話係
32
あっというまもない。まっすぐ落下して仙台堀に消えた。
 人びとはらんかんにかけよってのぞいた。どすんと音がして、お袖はちょき舟のほさきにあおむけにたおれていた。おちたひょうしに、髻(たぶさ)がぱらりとほどけ、黒髪が川の水に藻のようにただよった。
 「いててて、いてえよお、おっかさん、たすけてちょうだい」
と、お袖は手足を船べりにばたつかせて、死んだ取りあげばばの母に訴えた。
 船頭があわててだきおこし、
 「だれか、医者はおらねえか」
と、どなった。
 「直助、いまのうちだ。早く行こ。足か腰の骨を折ったかもしれねえが、そいつは外科の仕事で、本道(ほんどう)の出る幕ではねえ」
と、つごうのよい理屈をこねて、野次馬をかきわけて海辺橋をわたった。そのまま北へ行くと道は霊巌寺門前にぶつかり、わずかに左にそれて高橋(たかばし)へつづく。右が寺の練塀、左が関宿藩のうら塀になる。とちゅう、直助に、
 「おめえ、罪なことをしたもんだ。お袖がかわいそうでねえのか」
とたずねたが、なにもいわない。ほお骨のはった顔をそらしてわざとしらんぷりだ。
道が小名木川にぶつかると高橋がかかっている。その名のとおり、下をくぐる荷船のために橋げたがうんとたかく作ってある。行徳(ぎょうとく)のほうから船ではこばれてきた塩やみそや乾鰯(ほしか)、それに野菜がここでも陸揚げされ、深川の住人の口に入る。いまも大八車や馬があつまっていて、河岸揚げ(人夫)が荷を肩にかついでいた。
 海辺大工町は高橋の手まえになる。前方のにぎわいをながめて、左の路地にもぐりこむ。茂七の長屋は木戸のおくを、右に左に行ったところで、深川稲荷(ふかがわいなり)のならびだ。家族六人のうち、老婆と五歳の子と三歳の子が病気になっている。三歳の子がたー坊で、ずっと熱がさがらない。「驚風」とよばれるやまいであった。
どぶ板をふんで長屋の戸口にちかづくと、なかから、うちわ太鼓の音がした。
「南無妙法蓮華経」
とお題目をとなえる声がつづいた。
 「ごめんぐだせえ」
 庄左衛門は長屋の戸口でいった。
3/1 10:26

20092007

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