塩見 鮮一郎公式WEB 掲示板

過去ログ1997 2013/2/20 8:20

▼世話係
26
座が水をうったようにしんとした。
庄左衛門は青ざめた顔をかくすようにうつむいた。
吉田忠左衛門はこんどは声をひくくして、ささやくようにいった。
「よいか、わしはあせっているのではないぞ。機会はいちどしかない、ともうしておるのだ。十二月六日の夜、一回のみだ。しくじれば、大夫のいわれるように、われら一同、ともに死のう」
といい、宙をにらんだ。
 大石内蔵助は濡れ縁のさき、泉水(せんすい)のほうをながめていた。くもり空のした、なにもかもが灰色のなか、寒つばきの赤い花がひときわ目をひいた。内蔵助はみなのほうに顔をもどすと、ひとつおおきくうなずき、
 「たとえ老人の首級(しるし)がなくとも、われらの本意は後世ひろくつたわるだろうよ。亡き君(きみ)が松の廊下でがまんならなかったのは、吉良どのだけではないよ。口にだしていうのはばかられるが、おのがたもわかっておるだろう。まいないが横行する私利私欲の政事に、なんの痛痒(つうよう)もおぼえぬかたがおおかった」
と、おだやかに述べた。間があって、
「いまもそのまま」
と、ひとり言のようにつぶやいた。
「つまり、失敗はゆるされぬということだ」
と、小野寺十内がみなをはげました。
「さよう」
と声で応じる者、うなずく者がおおかったが、おしだまったままの者もいた。堀部安兵衛は腕組みして、てんじょうをにらみつけていた。
2/20 8:20

▼世話係
27
波勝楼は十八年まえとおなじであった。こけらぶきの屋根も門前のもみじの木もそのままだ。松並木ごしにじっとながめていると、黒塀の端、まるい柱を二本だけ立てた門から、ちょうちんをもった人たちがでてきた。いちばん先頭にいるのが、こがらな大石内蔵助、そのよこに、父よりも図抜けて背のたかい主税がいた。この親子を髪の白くなった老人らがとりまき、やがて堀部安兵衛など三十代なかばの者が威勢よくあらわれた。宗匠頭巾(そうしょうずきん)で茶人のなりをしている大高源五が、ひときわ目をひいた。
「ああ、それにしても、いまや高名になったかたばかりだ」
庄左衛門はまわりを散策する参詣人に、
「ごらん、あれが赤穂の義士たちだ。先頭におられるのが大石内蔵助さまだ」
と、おしえたかった。
 くらい空にとけこむように頼母子講の人たちは去った。若手が最後にでてきたが、小山田庄左衛門も毛利小平太のすがたもそこにはなかった。おくれてでてくるのかと目をこらしてまったが、ついにあらわれなかった。
波勝楼はなんらかわってないが、庄左衛門はすっかり老いた。雪のいまにもおちてきそうな空をちらと見て枯れ草のあいだの小道を引きかえした。
「あのような時がほんとうにあったのか。いまでは夢のようだ」
うなだれてつぶやいた。
伊東の座敷にはちいさい卓がいくつもあって、三組ほどの先客がいた。酒がでるのをまつあいだ、腰のわきに置いた備後三原の黒ぬりのさやをなでていた。
まもなく直助がきた。
「ちらちらと小雪が舞いだしたべえ」
といい、継ぎのあたったあわせについている雪片をはたいた。
「直助、きょうは長居はできねえな」
酒をついでやった。
「へへへ、きつねのなべがまってるべえ。おそくなると、あっしのほうがお師匠から大目玉をくらいまする」
それでもふたりは、永代寺の暮れ六つの鐘が鳴るまでそこにいた。帰途は陸路を歩いたが、たそがれと同時に人のかずがすくなくなり、富岡橋のたもとには屋台のちょうちんがひとつあるだけだ。えんま堂のまえも閑散として、お袖の赤い着物すがたはなかった。
2/20 8:18

▼蜘蛛
荷造り
お疲れ様です。
引っ越しの日の天気予報は晴れです。
楽しみにしてま〜す。
2/20 0:04

▼咲
神田 藪そば
も、燃えて……。あ……。
俳優じゃないですよ〜。
荷造り、飽きます。私も段ボール箱に入って、らくらく運んでほしい。
2/19 21:10

▼小梅村
そうでしたか。咲さんは女優もやっていたのではないですか?
2/19 17:47

▼世話係
アホではありません
出版社待ってます。
2/19 16:39

19981996

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