塩見 鮮一郎公式WEB 掲示板

過去ログ1995 2013/2/18 14:51

▼山陰のSM
三原橋の写真にある銀座シネパトス、懐かしいです。
階段を下った地下に入口があって、すぐ横に居酒屋があり、上映中には電車の轟音が響きました。

相米慎二が亡くなった時、この映画館だけが追悼特集をやり、通いつめました。
(ちなみに相米監督が新日文に来られた日、東京を台風が襲いました)

閉館になると聞きましたが、本当ですか?
八重洲スター座、並木座、どんどんなくなりますね。

当地の映画館も、イオンのシネコンだけになりました。
2/18 14:51

▼世話係
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その作業も庄左衛門は手伝っていた。
 「うむ、ごくろうよな、安兵衛」
と、内蔵助がやさしくねぎらった。
 「は、はっ」
と、堀部安兵衛の両の肩が得意そうにぐいとあがった。
 前方につめた重臣を中心して話しがすすみ、当日の結集場所は、三班にわかれて、本所林町五丁目、同相生町二丁目、深川徳右衛門町一丁目にきまった。
いずこも堅川(たてかわ)の河岸に接していて、船で出入りができ、しかも吉良の屋敷とは目と鼻のさきであった。そのうちのひとつ、林町五丁目は堀部安兵衛の借りている家で、剣道の道場をかねた。ひろさもまずまずで、小山田庄左衛門はそこで寝泊まりしていた。討ち入りの道具もその二階にかくしてある。
「刻限は」
と、大石内蔵助が声をひそめた。討ち入りの時間のことだ。
 「寅がよかろう」
 だれがいうとなく、午前四時でまとまった。人びとがふかく寝静まるころ、早番の女中がおきだすまえの刻だ。両国を五十数名の者が走りぬける。着用の衣装については十一月じゅうに伝えられていて、すでに各自、用意がととのっていた。黒い小袖に股引、脚絆にわらじばきだ。帯のむすび目は右の脇、武器は得意とする刀や槍や弓や斧だ。
 「寅なら、三か所への終結は、丑、八つ時だな」
 吉田忠左衛門老人がおぎなって、午前二時にきまった。庄左衛門などの若輩は、五日には、道具の整備、借家の片づけ、町の店への支払いなどにとりかからねばなるまい。六日の午後はおおぜいの食事の準備などでいそがしかろう。
 「品川のお父上においとまを告げるのは、あすか、それとも、ぎりぎりのあさってか」
と、庄左衛門は頭をめぐらせていた。
波勝楼では昼食をはさんでじつにさまざまなことが論議された。吉良上野介の首級(しるし)をどうやって泉岳寺の殿の墓前にまで運ぶのか。味方の負傷者や死者が出たときはどうするか、役人が駆けつけてきたときの対処、引き揚げた一同がまずあつまるのはどこがよいか。
もっとも人びとが興奮し、目を血ばしらせて語ったのは、万が一、吉良上野介の首を討ち損じたときだ。考えたくないことだが、ありえないとはいえない。
「そのときは、死のう。われら全員、邸内で切腹してはてよう」
というのが、大石内蔵助の意見であった。
2/18 9:07

▼岡坊
ああ。
電話で聞いてみるのも、手ですね。
ありがとうございます。
牡蠣、私も昨日食べました。
室津産でしたが、先生の写真に負けず、ぷっくらと肉厚で甘い。
今の季節、牡蠣は美味しいですね。癖になります。
2/17 14:25

▼世話係
アポイントをとれば…
寺か観光課でわかるのではないかなあ。
2/17 14:00

▼岡坊
稲荷神社の西側
円光寺というお寺があって、そのすぐそばにあった築山の穴に住んでいたらしいのです。
明治30年に、築山が取り去られたときに寺から出てきたと。
中也がこの辺に住んでいた時の詩に「狐の皮裘」が出てくるので、関係があるかなあ。見れたらいいなあ。なんて思いまして。
先生ならば知っているかと、お尋ねいたしました。
いきなり行って、見るのは無理そうですねえ。
2/17 12:38

▼わかけん
直助権兵衛は
ぜひとも紙に印刷されたものを読みたいですねえ。
2/17 12:27

19961994

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