塩見 鮮一郎公式WEB 掲示板
過去ログ1963
2013/1/26 11:30
▼咲あ平野、ここも行きました。私は三好です。審査が通れば!(カッパだからダメかしら〜。)
深川という名前をあらためて考えました。夜が似あう……のでしょうか。
料理本はいいですね。札幌の母がアルツハイマーで料理があまりできなくなってから、父が苦労しています。70歳からの料理、しぶくていいですね〜。
1/26 11:30
▼世話係つづきC「このおおきな橋で、日本橋界隈から深川へかんたんにわたれるようになった。漁師しかいなかった土地に、大工や職人や商人、それに積荷(つみに)のあげおろしの河岸揚げ人夫(にんぷ)があつまり、やがて木場(きば)ができると、有名な材木商までも移ってくる。
永代寺門前には茶見世や飲み屋がならんだ。
料理屋に旅籠(はたご)ができると、女たちがあつまってきた。もぐりの遊女だから安い。その女をもとめて男たちがやってきた。浅草などとはちがって新興の盛り場だ。ひそかに遊ぶのに適していたし、お上の目もゆるやかだ。
身分を隠して住むのにもよい。
新参の医師がわりこんで患家をふやすことができた。仏具屋とてもおなじで、深川で新所帯をもった者が仏壇を買いにきた。万屋はおおいに繁盛し、三角屋敷にあってもここだけは通りに面した二階屋だ。
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▼世話係Aさん、つづきB「からすの群舞するのは平野町(ひらのちょう)のおく、こけらぶきの長屋が密集するあたりだ。運河にはさまれたため、地所の先端が三角形になった。とんがった土地はつかいにくい。ながいこと雑草のしげる荒れ地だったが、いつしかちいさい家でうまった。端っこには墓地ができ、卒塔婆(そとば)が風に吹かれ、ぶつかりあって鳴っている。
地所全体でも、お寺ひとつの敷地の半分ほどしかないのに三角屋敷という。そう呼んで楽しがるのが江戸っ子なのか。ふるくはここも材木置場であったはずだが、だれかの拝領屋敷が建ったときもあるのだろうか。いまではなにもかもがあやふやだ。
一帯がはげしく変化したのは永代橋ができてからだ。元禄十一年(一六九八年)、庄左衛門が二十五歳のときだから、二十年ほどまえになる。あのときは鉄砲洲のお屋敷から見物に出てきた。まだ気の香りのする橋を途中までわたり、川のはるかな高みに立って周囲の眺めをたのしみ、
「江戸はよいなあ」
という感慨をもったのをおぼえている。
1/26 8:35