塩見 鮮一郎公式WEB 掲示板
過去ログ1938
2013/1/9 18:31
▼世話係やはり芸能の産地ですね。
アマリ神は出てこないですか。
アマリ、なにが訛ったのか。
それともアマリが明石海峡を
漕ぎ行くフネで渡ったとき、
なんと訛って伝わったか。
いろいろ、ありがとう。
すこし考えます。
1/9 18:31
▼クモわたしもなゆさんのブログ見ましたよ〜。
なゆさん門仲に来られたのですね。
気持ちが通じて嬉しいな。(思い込みが激しい)
わかけんさん
はい バレてます。
先生は「だるま」で嬉しい体験をしました。
わかけんさんも、ぜひ門仲にいらしてください。
1/9 17:07
▼わかけんクモさん門前仲町はクモさんのエリアですよね。
なゆさんのブログで「だるま」っていう居酒屋見ました。う〜ん、行ってみたい。
なぜかって?
それはヒミツ。
え、もうバレてる?
1/9 15:28
▼岡坊第3弾明治ころまでは43座あったそうですが、現在は2つだったかと。継承者の育成が大変なようです。
少し長いので、若干端折りました。(特に第2弾は)
あまり詳しく調べたことがないので、先生がほしかった情報かどうかはわかりませんが、もし、ここのところえおもう少しということであれば、調べますよ〜。
芝居小屋の写真等もあります。
必要でしたらお送りしますね。
読みながら、ちょっと、懐かしかったです
1/9 14:43
▼岡坊第2弾和歌森太郎編淡路の「産所」は、中世においては、付近の八幡社に奉仕することによって、その荘園領主である八幡宮に散所として寄生隷属していたと考えられるが、近世初頭に神漁が収公せられると、この「産所」民も規制すべき支柱を失い、大名蜂須賀に接近し、その庇護のもとに、古来の操技を活用して信仰の人形浄瑠璃を家業とする。
正月になると座の役者たちが三番叟の人形を持って各家々を回る(オキナアゲという)。役者は家元の家の神棚の前で三番叟を奉納、各人の縄張を回った。福戎の神札は戎と大黒を吸ったもの。甚太夫、与左衛門という座元の字が入っている。
三番叟を通じて人形回しと村人との宗教的接触があり、人形まわしは今でも民衆との一体感が強い。
淡路の漁村では正月・漁祭りには人形芝居をその部落の広場・浜または宮の境内で開演する。(『淡路島の民俗学』)
1/9 14:35
▼岡坊淡路人形浄瑠璃芝居 第1弾西宮の百太夫が漁に出ていると、海中から子供がでてきて「私は蛭子である。未だに住む家もなくこうして海中をさまよっている。住む家もなくさまよっている。住む社を建ててほしい」といった。そこで西宮戎神社ができた。
神社によく仕えていた道薫坊が死んだときに、百太夫は道薫坊に似た人形を作りっ神社の前で操るようになったのがことのおこり。その後、各国をまわして歩き、淡路の市村山上に定住し、操り人形を伝えた。
4百年前位前の話だが、和歌森太郎によると、平安末期から中世にかけての八幡信仰と関係があり、、宮に奉仕していた祝子(ほふりこ)巫女たちからおこったのだろうと推論している。
人形遣い(おきなの舞やえびす廻し)は阿波藩主や朝廷の保護を得て諸国を遊行していたが、浄瑠璃として新しく輸入された
三味線を伴奏として用い、人形も一体を三人で遣う複雑なものに改良。都会で大好評を拍す。
小屋掛けで興行するせいもあって、人形も大きく、素朴で野趣に富んだ。(兵庫のふるさと散歩6.淡路編)
1/9 14:10