塩見 鮮一郎公式WEB 掲示板
過去ログ1864
2012/11/4 10:31
▼世話係人の褌で相撲。神門の裏側に回ると、そこには、日吉神の使いである神猿(まさる)が衣装をつけて門の左右に鎮座している。そして門の上には、「皇城の鎮(しずめ)」の額が掲げられている。
もともと山王権現社は、江戸城(皇居)の裏鬼門を鎮護するために祀られた社である。
11/4 10:31
▼世話係まゆつば神門の正面(東方向)に、53段の石段があり、その先に山王鳥居が見える。ここが正面の参道で「男坂」と呼ばれ、山王坂(国会議事堂方面)に通じている。左手のキャピトル東急ホテル裏の坂道が「女坂」である。
神門の手前に宝物殿があり、その近くに、国歌に詠われている「さざれ石」が置かれている。この石は、国歌発祥の地といわれている岐阜県揖斐郡春日山の山中より発掘されたもので、学名は石灰質角礫岩だそうである。
11/4 10:28
▼世話係まだまだ先の黒い赤坂鳥居の前を通って100mほど行くと、二の鳥居の前に出る。鳥居の左手に「山王橋」が架かっている。
一番右の写真は、鳥居の裏から溜池があった付近を見た景色である。古地図を見ると、この辺りが池の幅が最も狭くなっている地点であるが、橋の印はない。
階段の右側にエスカレータが設置されている。右手の林からキャピトル東急ホテルの辺りが、北大路魯山人で有名な「星が岡茶寮」の跡である。星がきれいに眺められた岡であったという。
11/4 10:27
▼世話係人のブログを貼り付けています日枝神社は、秩父氏の館にあった山王権現を大田道灌が江戸城内に奉祀し、それ以降、城内紅葉山、半蔵門外、溜池を望む景勝の地星が岡に再度遷座し、明治維新の神仏分離により日枝神社と改称して、現在に至っている。山王まつりは、神田まつりと共に天下祭り、御用祭りとして華麗豪壮、まさに天下随一と称えられている。氏子区域は、皇居を中心として、外堀の内側と一部その周辺を占めている。
赤坂見附駅から約300mで、先ず本殿西側の黒塗りの赤坂鳥居にいたる。日枝神社の鳥居はすべて山王鳥居の形式(あとがき参照)である。階段を上がったところに「山王日枝神社」の標石があり、ここを左に昇ると本殿の裏に出る。右に行くと、本殿南側の二の鳥居の上に出る。
11/4 10:26
▼世話係番外往時の弁慶橋から赤坂見附辺りにかけては、清水谷公園や紀尾井町方面から、きれいな水が豊富に流れ込んでいた。神田上水、玉川上水が整備されるまでは、この湧水を今の特許庁辺りで堰き止めて貯水池を造り、上水として使っていた。ここから溜池の名がついたといわれている。
弁慶堀から流れてきた外堀は、赤坂御門辺りで溜池につながり、虎ノ御門手前の堰までの約1.4kmが江戸城の外堀を形成していた。堰から流れ落ちる水の音がドンドンと響いていたので、この堰は「赤坂のどんどん」と呼ばれていた。なお、溜池の幅は所により45〜190mであった。
虎の御門からは、新し橋を経て第一ホテルの横を流れて幸橋(みゆきばし)御門にいたり、その先の土橋から汐留川となって芝口御門を経て浜離宮の西側から海に注いでいた。
一方、外堀としては、土橋の手前で分流して北に折れ(左折し)、ほぼ外堀通り沿いに山下御門(帝国ホテル付近)の方向に流れていた。
11/4 10:21
▼世話係シュポさんへ上智と土手の間を南下します。上智大の場所は、
名古屋尾張の徳川の屋敷跡地です。
左に曲がって紀尾井坂です。
右が「食違(くいちがい)」で、堀を渡って迎賓館へ行ってしまうので、今回はクリア。
つぎの角を右へ行くと、清水坂(しみずざか)。大久保利通が暗殺された場所です。警官が駆けつけたとき、
まだ脳がぴくぴくしていたという。
左に清水坂公園。ここでベ平連は集会をもった。
(この項、続)
11/4 1:30