塩見 鮮一郎公式WEB 掲示板

過去ログ1741 2012/8/4 3:55

▼世話係
視点
これまで歴史の書き手が、
奈良か京都にいましたが、
書き手が美濃や東国にいたら、世界は一変します。
説経節、東国一編の弟子のいた藤沢。
それが視点になります、だから、をぐりは解釈がおもしろい。
早く本にしてくれ。
いやならよそから出します。

この視点の問題は、
これまでの中世の歴史叙述の欺瞞を
教えてくれます。
網野さんも、もっといえばよかった。
それとも、わかってなかったか。
あの人は高校教師もやった。
だから、「単純アカデミズム」ではなかっただろう。だが、結果はアカデミズムに吸収された。
本人の責任だと思う。
だから網野ブームなどになり、いまも、
それを追いかけている。
いいかげんだよな。
8/4 3:55

▼世話係
だんだん
わかってきましたね。
貴君のテーマが浮き上がりますね。
中央と辺境。
雅と野蛮。
バカとアホ。
8/4 3:40

▼わかけん
なるほど
境界ですか、青墓は。
持統が美濃を越えて三河に行くのは、猛烈に反対されたようですし。首も、そこを越えてはいけない。
青墓。南宮。伊吹。別所。将門。照手。ネタは揃ってますね。
8/4 3:09

▼世話係
みのは
防波堤なんですね。
京都の。
逆に公家から見れば、
美濃までは
インナーなのですね。
青墓の微妙な位置について
いまごろわかってきました。
8/4 0:13

▼わかけん
なんでしょう。
少なくともいろいろな土地で人気があったのは確かですね。
菊池山哉は、大手町にも別所があったと言っていたような。俘囚と首がつながれば、歴史ミステリーで稼げますか。
8/3 18:04

▼世話係
途中撃墜の話はなにかな
伝承では、将門の首級は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数か所あり、いずれも平将門の首塚とされている。

その中でも最も著名なのが、東京都千代田区大手町一丁目2番1号外[1]にある首塚である。かつては盛土と、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったので、古墳であったと考えられている。
8/3 16:17

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