塩見 鮮一郎公式WEB 掲示板
過去ログ1059
2011/3/4 13:06
▼とんぼ白い城こんなところで聞くことじゃないけど、「白い城」の魅力って、何なんでしょうね。知らぬ間に引き込まれてしまいます。
よかったら、簡単なお返事を。
3/4 13:06
▼世話係訂正まちがってましたね。宇野線の中間の駅ですね。ここで下津井電鉄(軽便鉄道)に乗り換えたのでした。それで、記憶に残っているのだ。
ストリートビューで見たら、平凡できれいな駅になってました。
3/4 5:42
▼世話係茶屋町下津井電鉄の中間の駅ですね。
幼時、ここを通るたびに「ちゃやまち」という響きに、なんとなく色気を感じていました。
思えば早熟か。
米の倉庫が駅に接してならんでいましたが、いつしか、サビれましたね。その後の変化は知りません。
3/4 5:30
▼お城大好き三月三日上巳の節句(桃の節句)→「桜田門外の変」と言う事で、半蔵門から、彦根藩井伊家上屋敷→襲撃現場→浪士の逃亡足跡を辿り丸の内周辺を散策してきました。半蔵門から外桜田門辺りまでのお堀端の風景は何時見ても素敵です。
「江戸の宿場と差別された人々」の受講証が届きました。その後も楽しみにしています。
3/3 21:14
▼よなごのSM父母うちの父母は面白味のない人間ですので、見合いで結婚したそうです。
地銀に勤めていた父にくっついて、倉敷、茶屋町、湯原温泉などを小学校入学前くらいまで転々としました。
僕たちと別れた父は、あたらしい奥さんとの生活の中で自分の欠点を克服し、娘にも恵まれ、幸福な家庭を築いたのだと思います。
僕に会うと、克服したはずの欠点を息子の中に見てしまうのではないでしょうか。
3/3 19:02
▼世話係そうでしたか。ウィキによると、「1942年、召集され中国各地を転戦し、このとき何千体何万体もの壊れた仏像が修理を求めるような表情で夢に現れたという。1945年に復員、三十三間堂での修理に復帰し、以降、仏師・仏像修理技師としての修行を積む。1951年に37歳(数え年)で得度、天台宗の僧侶ともなる。美術院国宝修理所所長、東京芸大教授などを歴任する一方で、1955年からは京都・愛宕念仏寺の住職となり、同寺の復興に当たる。」等々。
なるほど、寺の羅漢が面白いのが分かりますね。あと、2、3体、トップ(ホーム)で紹介しましょう。
3/3 7:49