塩見 鮮一郎公式WEB 掲示板

過去ログ1058 2011/3/3 5:35

▼長野のせんせ
仏師西村公朝さんの寺
まだお詣りはしていませんが、仏師西村公朝さんが亡くなるまで住職で、羅漢さんを納める人たちを受け入れて出来たようですね。
3/3 5:35

▼世話係
そうでしたか
こんなとこで、世間話もいいですね。
岡山のどこにいたのですか。
わたしの場合は、父が岡山の六高(第六高等学校)へきていて、京橋のうえで、父がナンパしたそうで。ナンパされてうれしかったそうで。
古きよき時代ですね。
3/2 18:17

▼よなごのSM
お父様は鳥取の方で、岡山出身のお母様と東京で出会われたのですね。
僕も幼い頃、岡山に住んでいました。別れる前の父母と一緒に。
僕の場合は母を東京に呼ぶことはできず、自分が鳥取に戻りました。
父は健在ですが、再婚して家庭をもっており、目と鼻の先に暮らしてはいますが、僕とは会いたがりません。
3/2 17:48

▼世話係
そうですか
そんなふうにお思いでしたか。母を呼んだのか、母が来たのかビミョウですが、つまるところ、わたしが東京で就職したのが岐路でしたね。
父は鳥取市の紙屋で生まれたので、それで祖父が菩提寺に墓を造ったのですよ。戦前はまだ、家父長社会でしたので。
3/2 17:21

▼よなごのSM
「はかない話」。
読みました。
塩見さんは岡山出身なのに、どうして東京につよいこだわりをお持ちなのだろう、岡山のお母さんをなぜ東京にお呼びになったんだろう…と、ずっとわからなかったことがいくつか理解できました。(毎週のようにお会いできていた時に直接お聞きすればよかったのですが、なにぶん僕も若過ぎ、いつも酔っぱらっていたので…)
塩見さんにはこれまでたくさんのことを教えていただき、様々なことがつよく記憶にのこっていますが、今回の記事をふまえて、また、いろいろ考えさせていただこうと思います。
お父さんのお墓はどうして鳥取に?
またの機会に、教えてください。
3/2 17:14

▼世話係
有情と
無情と。雪は消えましたか。
3/2 7:53

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