塩見 鮮一郎公式WEB 掲示板

過去ログ3031 2017/1/18 1:02

▼世話係
読書E
足利尊氏の圧勝になった。
前回京都を支配しながら
後醍醐の反撃を受けたのは、
「朝敵」と見られたからだ。

そこでこんどは、持明院統の天皇を迎えた。
ちょうど、天皇家が二派に分かれていて、
替わり交代に天皇を出していた時代が幸いした。天皇制が何かがよくわかる。

ふたたび上洛した足利は、東寺を御所にした。南朝・北朝の下地はできた。

楠木の死を知ると、新田義貞が帰還する前に、
後醍醐は比叡山へ二度目の遷座(せんざ)となった。
1/18 1:02

▼世話係
読書E
足利尊氏の圧勝になった。
それもこれも、前回京都を支配しながら
後醍醐の反撃を受けたのは、
「朝敵」と見られたからだ。
そこでこんどは、持明院統の天皇を迎えた。
ちょうど、天皇家が二派に分かれていて、
替わり交代に天皇になっていた時代が幸いした。

京都に入った足利は、東寺を御所にした。
南朝・北朝の下地はできた。

楠木の死を知ると、新田が帰還する前に、
後醍醐は比叡山に二度目の遷座(せんざ)となった。
1/18 0:56

▼世話係
読書D
沖に海が見えないほどの船。
陸に迎え撃つ新田・楠木軍。
始まりは、那須与一の話に似ている。
弓自慢の官軍の男が渚から名乗っていわく。
「筑紫より御上洛候へば、定めて鞆(とも)、尾道の傾城は多く召し具せられ候ふらん」
船に遊女がいることを言っている。
つまり、従軍慰安婦はいつの時代でもいる。

楠木は700騎で大勢の敵兵の中に突撃し、
しきりに走り回り、敵兵を蹴散らしていたが、疲れてもはや戦えない。
湊川の民家に入り、全員切腹した。
正成は弟の政氏(まさうじ)と、
「兄弟手に手を取り組み、刺し違へて同じ枕に
臥しにけり」
1/18 0:37

▼世話係
読書C
京都の話を聞いた新田義貞は、
「確かに、少数で多勢に向かうのは無茶なことだが、
わたしは去年、箱根から負けてもどってきたとき、嘲られて悔しかった。
いままた敗れて都に戻ることはできない」

楠木正成はなぐさめた。
「北条の鎌倉を一気に攻め落とし、この春には比叡山坂本から出陣して、
尊氏を九州へ追い払った。立派な功績だ」
「そうか、わたしも捨てたものではないか」
と、すこしは元気になった。

ここは作者のフィクションだが、
後醍醐に振り回された武将への哀れみがある。
「その夜は、数盃の興にぞ明かされける」と、つけたしている。

翌日、湊川の戦が始まる。
1/17 15:45

▼世話係
読書B
楠木正成の意見はつぎのような中身だ。
朝敵は四国・中国の武士を集めて膨大にふくれあがっている。
ここに少勢でぶつかっても、忠義の兵を失うだけだ。いったん引いて、こちらの体制を整えるのがいい。
しかし、後醍醐はにべもない。一年に二度も
延暦寺へ遷座するなぞできない。
行って早く足利を討てと叱咤された。

もはやこれまで、死ねという綸旨か。
楠木は子の正行(まさつら)に父が死んでも
後を追わずに時期を待てと、別れを告げた。

神戸湊川に着くと、新田義貞と一献を交わし、
しみじみと一夜、語り合った。
1/17 0:18

▼世話係
読書A
尊氏が進発したことを知った朝廷は
ふたたび新田義貞に迎え撃つよう命じた。
兵庫県と岡山県の境の船坂峠は細い道しかない。
苦戦を強いられながら新田が岡山に入ると、
尊氏は兵を二手に分け、
陸路を弟の足利直義(ただよし)にまかせた。
あの大塔宮を行きがけの駄賃に殺した男である。
すぐに倉敷市と総社市のあいだの山で両派は激突するが、
新田側は押し返され、神戸まで後退した。
須磨の沖には尊氏の船が6、7百艘、押し寄せている。
天皇は楠木正成(まさしげ)に出陣をもとめたた。
正成はすぐに「はい」とはいわなかった。
1/16 14:18

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