あかはたともみの”でいり〜赤旗”掲示板
過去ログ382
2008/3/3 0:55
◆いとう北海道
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http://www.77-77-77.com/77/ind「tag閉じ忘れ」2008/3/3(月)0:55
HP
◆pochidabwoo◆VhHW埼玉
アメリカのイージーS艦さて、イージス絡みで言えば、わたしにはちっとも判らないのが、先日のアメリカによる自国偵察衛星ミサイル爆破処理の一件。たしか以前、中国が同類のことをした時、アメリカさんは「遺憾の意」を表したのではなかっただろうか。自分のところの衛星を自分のところで爆破するのが正当化されるなら、そりゃ中国だって同じ事。いかなる理屈がアメリカにあるのかさっぱり判らない。
加えて爆破は見事に成功し安全は守られた、との説明があったと記憶するが、本当にそうなのだろうか?
たしか「有害な物質が搭載されている」ので、それが地上に落下しないよう「爆破」し、結果、安全は守られた、という脈絡だったと記憶するが、落下状態の偵察衛星の軌道は随分と低かったように思う。大気圏間近で「有害物質」が拡散したのでしょう。「有害物質」というものに重さというものがあるなら、地球には引力があるのだから、目には見えないものの、いつしか地球の大気に紛れ込むということはないのだろうか? 私にはさっぱり判らない。
それにもっと単純に、「爆破処理」とはいっても、空気の薄い(低い軌道だから空気がゼロではないのかもしれない)場所での爆破ってものは燃焼を伴うのでしょうか。どうも「爆破」というと「燃え尽きた」イメージがあるが、何か「破壊」だけに思われれて仕方ない。破壊された衛星の残骸というものは、いったいどうなるの? 細かくなった残骸がいつしか引力で成層圏に入り、燃え尽きるということなのだろうか。でも、残骸の大きさってものは「爆破」によって燃え尽きる程度になると担保されているの? 燃え尽きずに地表に落下する残片が残る可能性があるなどという一言もなかったけど…。
それに、いつしか引力で地表にというなら、やはり「有害物質」だっていつしかそうなるのではないの?
私にはさっぱり判らない? さっぱり判らないところで、命の危険が迫っているのかもしれない。さすがにイージス艦は優秀最強の武器だ。ただ、どこまでいってもヤツは単なる機械に過ぎない。能動的に命を守る存在ではない。
2008/2/25(月)18:42
◆pochidabwoo◆VhHW埼玉
日本のイージーS艦-02皮肉な表現をすれば、すべての自衛官はそんじよそこらの学者(大学教授を含む)や牧師や思想家を凌駕して余りある知見を有している者でなればと欲すのです。何故なら、その一発ないし一撃が、自国や自国民や近隣諸国や関係諸国にいかなる影響が及ぼすのか、よ〜く判っていて、それでもって「今、撃たなければならない」という選択であらねばならないからです。
「軍備も持たずにどうして『平和』が守れるのか。そうした『平和ボケ』な議論は云々〜」というへなちょこな論法こそ、私からすれば「平和ボケ」だと思える。実例として先の千歳の事件や、私の承知していないその他の一触即発な事はきっとあったのだろう。一触即発の事態にあって「軍備こそ『平和』の保険」などというのは単に世迷い言に過ぎないのではないか。
今回のイージス艦事故の裏側にあるのは、私としては、一人ひとりの隊員ではなく、防衛省とか軍隊という存在そのものの底流に、自らの存在を正当化する考え方としてある「私はこの“美しい国”を護っているのだ」という、いわば胡散臭い「偽善的」《自信と自覚》だと考えるのです。これへの厳しい問い詰めがなされない限り、彼らは自らを「尊い」と思い「存在意義」を見出す努力を続けるでしょう。もはや自衛隊は、自民党の子飼いではなく、自覚的に自意識をもった“有機体”と捉えるべきだと私は思います。私流に言えば、彼らは自らが生き残るために「勝手に判断し、生き残ろうとするだろう」と思います。その怖ろしさを念頭において今回の「事故?」を考えるべきであるし、実際そうした考え方が底流にあるからこそ(今日の疎漏的情報によれば)、「相手(漁船)がよけてくれると思った」という言葉の意味が、すんなりと腑に落ちるのではないでしょうか。
「我らは悪くない。何故なら崇高なる使命に殉じているからだ」
そう、彼らは「崇高」な存在となり始めているのです。だから私たち「崇高」なる民は、憲法の規定にしたがい、「崇高」な国民として「軍隊」を放棄せねばならないのだと考えるのです。
2008/2/25(月)0:40
◆pochidabwoo◆VhHW埼玉
日本のイージーS艦-01今回のイージス艦事故に関して、防衛省(海上保安庁も含むべきか?)側がまるで頻尿症状のようにチビチビと情報を疎漏している様子が気に入らない。「自衛艦が漁船と衝突」と聞いた時よりも、この情報の疎漏状態の方がダメである。もはや通常の神経を持つ人ならば「防衛省は情報を隠蔽している」と考えて不思議はないでしょう。
そうした有り様を視て聞き思い出したのが、1976年9月6日に千歳空港で起きた、当時ソ連のMIG-25戦闘機の強行着陸事件だった。正確には、その事件を扱ったTVのドキュメント番組に登場した防衛庁制服組、北海道方面責任者の発言だった。
「あの時は、一旦何かあれば、それは即応する覚悟をしていました」という主旨の発言(その番組は手元にVTR記録されているが、この投稿をするにあたり視返していない。ただ発言はそうした内容だったと記憶)。
その方面責任者(お偉い自衛官)は「自衛隊としての責務を全うする」自覚に長じていたのだろう。しかし、「一旦何かあれば覚悟する」とはより具体的に何をさすのかと言えば、当時、航空戦闘能力では米国を凌いでいたソ連の戦闘機を撃墜する覚悟があった、という意味だろう。実際、自衛隊はファントムをスクランブルさせている。MIGはもの凄いスピードで飛んでいる。その行動のいちいちについて、いちいち官邸に報告して「どう対応しましょうか」などとやりとりしている時間はない。それが戦闘というものだろう。つまるところ上官は言うのだ、「お前に任せる」と。その瞬間、日本という国の、あるいは民の命運は、すなわちソ連と戦争状態になる否かの選択は、北海道方面の単なる指揮官に委ねられることになる。
私が拘っているは、実際の「戦闘状態」の場面では「文民統制」など「空手形」に過ぎないのだという事実。
自衛官らにはきっと自信と自覚があったのだろう。「私はこの“美しい国”を護っているのだ」という自信が。実はそれが、表裏一体で極めて戦慄すべき《自信と自覚》だと想像するのです。
2008/2/25(月)0:39
◆pochidabwoo◆VhHW埼玉
再開は、元の場所=原点からやっと少し安心して、“TORAZO”さんと意見交換できるようになったと思います。あらためてご無沙汰しております。
京都での頑張りはご指摘のとおりです。甘んじるのではなく、今度はもっとねっ!としなければいけないと思います。
さて、今年の私の党との関係はいささか変化しました。互いに「近しい」存在であり続けてきましたが、今年からは動きにくい健康状態ながら「かかわる」ことになりました。今は後援会ニースの版下をつくる(二支部分)、後援会活動を手伝うなどしております。
そんな私自身の変化もあり、次の言葉を、京都や全国で活動されている皆さん、そして、ちょっと勇気の出ない皆さん、「共産党はいいことは言うんだけどなあ〜」とお思いの貴方にご案内したいと思います。ケっ躓く石となれば幸いと思います。
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一つは、民主主義は理念ではなく方法である。/もう一つは、/民主主義とは、民衆が統治権を握るという意味ではなく、統治権を握る人を民衆が選ぶ、ということだ。/日本国憲法は、このシュンペーターの定義を超えている。/日本国憲法では、そういう間接的な政治参加だけではなく、市民が直接行動を起こし、積極的に/「市民社会」をつくっていくことが期待されている。/政治活動をする人は、「模範的市民」の道から外れた、と思われることがある。しかし、憲法の基本的考えはその正反対である。市民が政治活動を活発にやってはじめて、憲法に構想されている民主政治が実現される。ゆえに、政治活動をしない人の方が、市民としての義務を怠っているのだ。
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これはダグラス・ラミスという元津田塾大学教授の著書の一節。“TORAZO”さんは承前の事かもしれませんが、とかく一歩後退、なお二歩後退というこの国の民に対し、ドッカ〜んという感じがありませんか。政治活動しない方がより良くない、というのは、勇気が出る言葉だと私は捉えているのですが……
2008/2/24(日)0:06