1 万寿

不老長寿伝記

“つまらぬ。何ともつまらぬ世の中よ”

祠にくぐもる声は幾重にも重なり、性別の判断は愚か足に力を入れなければその場に縫いとめてしまいそうな重い重い感情に満ち溢れている。

ふと目を開けても広がるのは闇ばかり
視力を失ってからというもの全ての生き物を超越したような強力な聴力は祠の外で楽しく戯れる小鳥の心音を聞き分け
元々敏感な嗅覚は更に個々の持つ独特な種族の匂いをも判別が出来るようになった。

だがそれだけでは今の九尾を満足させるような要素には何一つならない
彼女は全てに飽きていたのだ。

人間をどう嬲ろうと異種に狩られようと、自分から光を奪ってみせた見事な戦いはもう二度と味わえないだろう。二度と味わえないからこそ、あの一時は彼女にとって重要な人生の折り目をつけるものだったのかもしれない

「潮時…なのかもしれぬな」

金色に輝く九つの尾
それは魂が宿るとされ、不老長寿の霊薬とも呼ばれたりしているが実際その尾を手に入れたものは誰一人として居ない

「…妾の時代は終わったのじゃ、もうこの世界にずっと留まる理由はなかろう」

行くならあの世界が良い。小耳に挟んだ複数の世界が折り重なる世界へ
其処で隠居生活も悪くは無い、あまりに身勝手だがこれ以上無駄な小競り合いをするのも面倒だ。
だから

忘れるほど屠ってきた武士共に
退治しようと向かってきた猛者共に
腹の虫が収まらず手当たり次第破壊をし尽くした土地に

赤い花を手向けてやるのが
せめてもの、礼儀じゃろう…。
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「………ふぁ」


雅などとは到底肯定できない年期の入った木造の社
かといって埃も無く黴臭いわけではない
寧ろどこと無く神聖な雰囲気が漂う不思議な空間だった。

その空気を作り上げている本人といえば、祠の中で暢気に欠伸をしているばかり…
果たして崇め奉られる土地神として(っつか色んな意味で)やる気はあるのだろうか、この狐。


「今日の参拝者は不思議と童が多かったのう」

万寿は金色の尾の毛繕いを行いながら一人呟いた。
長寿利益のある自分の社へ参拝にくるのは大体寿命の尽きかけている老人か、その血筋を受け継ぐ童への健やかな生涯を願うなど一族包みで来るのが普通だ

なのに不思議と今日は童ばかり…

見覚えのある顔が来たかと思えば両親の姿は無く、代わりに新しい友を連れ。
参拝に着ては賽銭箱に金を投げ手を合わせ自分に向かって祈りを捧げるわけではなく、何故か境内に稲荷寿司や苺大福や花林糖を置いてクスクス笑っては去って行く始末…
一体何がしたいのだろう?
もはや仙人に近い年月を生きてきた九尾でも首を傾げさせるほど童達の奇っ怪な行動に万寿は供えられた童達の好物を目の前に外で戯れている楽しげな声を聞いて己の聴力を総動員させた。


『稲荷様喜んでくれたかな?』
『当たり前だろ!俺達の手作りなんだぜ?』
『それに疲れた時は甘いものって祖母様が言ってたもの』

『私達ばかりじゃ、ふこうへいだもんね』
『たまには稲荷様にも祈ってやらないとな』
『いつも私達のお願いばかりで疲れてるかもしれないもの』


だから今日だけは
感謝の気持ちを込めて


「……たかが童が、やりおるわ」


『狐様の長寿をお祈りします。』


静になった社の入口に万寿は人型の姿で降り立ち、奉納されている稲荷寿司達の前に屈み込んだ。

大きさも歪で所々破けている油揚げ
小遣いを出し合って買ったのであろう一個しかない苺大福
そして童達の大好きな花林糖


「…合縁奇縁とは、よくいったものじゃ」


頬を伝う冷たくも暖かい感触が新鮮で不思議と心地良い

深い悲しみと憎しみ、言い表せない程の激情に幾度となく心を蝕まれようとも決して流れることなどなかった大妖怪の涙が生まれて間もない童によって流されているのだ。


それがあまりにも滑稽で

狐は光を奪われた数千年振りに

笑った


「は、はははッ…!愉快じゃ!実に愉快じゃ!」


涙も笑いも止まらない。
万寿は腹を押さえながら供物を大事に持って境内の中へと入って行く

お世辞にも見た目は褒められないが努力は褒めてやろう。

そうじゃ、あの童達には何か褒美をくれてやっても良いかもしれぬ。


彼女は興味の無いもの…自分の歳すら正確に記憶しない性質だ。だからそんな自分でも生涯この暖かい感情が残っていたこと、更にそれが再び芽吹いた大切な日を忘れぬように…と
万寿は全ての尾と耳を揺らしながら童の温もりが残る稲荷寿司を口に運んだ。


茹だるような蝉の鳴き声
緑照り付ける強い陽射し
暇潰しに括り付けた風鈴の涼しい音色


全ては8月16日の出来事。
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「っ……」


手の甲で唇の隙間から漏れた酒を拭う目の前の彼を静かに見据える。いきなりの殺伐とした空気に男は不意にも悪寒に背筋を強張らせてしまった。
物の怪の治癒力を持ってしても二度と機能しなくなってしまった彼女の両目…躊躇いの無い深い一太刀によって失われた金色の瞳は彼を捉えているつもりでも実際は何も映さないのだ
彼女から光を奪ったのは、紛れも無い自分なのだから


「……」

「因縁に性別も種族も年月も関係無いのはお互いがよく知っておるじゃろう」


男は思わず拳を軽く握り締めてから右半分の己の顔面に手を添える
その皮膚は業火で焼け爛れた痛々しい火傷の跡が残っていた。
それは紛れも無い狐火の火傷、まるで呪いのように禍々しい紋様だ

代々自分の一族が守ってきたのは腰に提げている伝家の宝刀だけではない
今こうして酒を酌み交わしている大妖怪・九尾の狐が本元なのだ。

破壊の限りを尽くした九尾を鎮めるのが一族の末裔である自分の運命だと信じて疑わなかった、例え刺し違えようとも構わない。そう決心し自分の意思で宝刀を手に取ったことに嘘偽りも無く、真っ直ぐだった決意を今更否定しようなどとは言わない
だが“一族の末裔”としてではなく“一個人”として、彼は彼女との死闘に微かな罪悪感と疑念を抱いていた。


「…どうしてだ」

「何がじゃ?」

「どうしてアンタは大人しく人間なんかに従ったんだ」

「…今更何を聞くかと思えば…」


しょうのない阿呆じゃのう。
万寿は嘆かわしいとでも言うように俯いて頭を左右に振り盛大な溜息を床に落とす
その様子に普段なら文句の一つでも飛び交う筈なのだが、今この時だけ彼は真剣に万寿を見据えて答えを待つばかりだった
流石の彼女もその眼差しに耐え切れなかったのか、酒を煽ってから一息おいて煙管を犬歯が除く歯の間に挟み薄く微笑んで、答えた。


「妾は救いようの無い落魄れた人間が好きで堪らぬ。

栄枯盛衰を繰り返す短命な生き物

一人では何も出来ぬ最弱の物の怪

なのに数が多ければ多いほど残酷に命を狩り尽くす

じゃから妾はその礎の一つとなってやったのだ。光栄であろう?」


一族の切り札として崇め奉られた九尾の狐は一族の盾となり、時には矛となり、繁栄へと導く神の様な存在だった。だが彼女はその一族野党によって祠に封印された、それがどういう意味か?


「人間は己より強いものを全て災厄と見なす」


反旗を翻されたら一族は一夜で沈む。それを知っていた彼らは承知で万寿を懐に招き入れたというのに、その未知なる恐怖がついに彼女を封印する結果へと招いたのだ
勿論何も知らない万寿は今まで我が子のように守ってきた者達に裏切られ抵抗もままならないまま祠に祭られている殺生石にその身を封じられてしまった


そして時は経ち


九尾は一族の思うが侭、忠実に最悪の行動に買って出たのだ。


それが彼との出会いの切っ掛けでもある
6 万寿
「約束を持ちかけておいて自ら禁を破るとは真に愚かと思わぬか?
妾を軽んじ、信じ、慕い、敬い、畏怖し、恐怖し、自滅の沼へと自ら入りおった。
まさに犬畜生にも劣る一族じゃ」


そして目の前に居るのはその血を受け継ぐ唯一の子孫
万寿は刺し違える間際にその真実を全て彼に教えた。勿論男は今まで信じてきていたものが全て嘘で塗り固められていた栄華とは知らず当初は彼女の耳に言葉を傾けなかったが、お互い消えぬ傷を刻んでようやく理解した。


“アンタ…綺麗な顔して惨いな”

“そういうお主こそ、その綺麗な顔に太刀を入れるとは残酷じゃのう”

“いや、俺が狙ったのは首だ。眼じゃない”


生きる為に眼を捨てたのか。それともわざとそうしたのか…
男は焼け爛れる顔を手で押さえながら激痛に歯を食い縛りつつ九尾を見据える。
それとは対称的に、九尾は瞼から溢れ出る夥しい血の量にも拘らず激痛に耐えながら不適に笑って見せた


“醜い物を見て嘲笑う事に飽きただけのことじゃ”


「…アンタまさか」

「おっと坊――…それ以上はいくらお主でも言ってはならぬぞ?」


今更気が付いたとでも言うように男は目を見開き、見出した回答があっているか口を開こうとする、だがそのまえに白く細い指先が彼の乾燥している唇を塞ぎ全てを制した。
言いたくても言えないもどかしさと、今更気付いた己への不甲斐なさに男はみるみる表情を歪ませ不機嫌になっていくが、それに反比例して万寿の顔は笑顔へと変貌していく


「もう妾は人を襲うような暇を持ち合わせてはおらん。土地神はこれでも多忙でのう」

「…それでいいのかよ」


彼女はもう人など襲わない。それは痛いほど理解していた
だが血は争えない、もしもの事があればこの聖なる長刀は彼女の首を薙ごうといつでも機会を伺い長い刀身を輝かせるであろう
彼は納得いかないとでもいうようにボサボサの黒髪を掻き回し溜息をついた。


脳裏に蘇るのは業火の中で交わされた短い言葉


“尻の青い童が妾に適うとでも?”

“倒す。その為に俺は強くなったんだ!”

“お主は決して強くなど無い。血に穢れた哀れな童よ”


真っ赤な唇が裂けるほどに笑みを象る九尾
火の海に臆することなく恐ろしいほど不気味な輝きを放つ宝刀を構える一人の若者
真実を知っても尚立ち向かおうとした心構えと信念が大妖怪の心にも響いたのか定かではないが、死闘の末―――


九尾は光を失い

若者は狐火の呪いをうけた


“アンタは…これからどうするんだ”

“お主に教えたところで理解できまい。妾は好きなように生きるだけじゃ”

“その何も見えない眼でか?”

“この眼は充分常世を見据えた…もう、あっても意味をなさぬよ”


狐火の呪いは子孫末代まで。
術者の憤怒が静まらない限りその身に災いを招き続ける。生かさず殺さず…自分の罪を常に見据えていかねばならない苦痛の烙印

だが…


「手当たり次第に食い殺した償いに…か?」


光を失った彼女も


「さぁ…?どうであろうな」


薄く笑う土地神の瞳には今何が映っているのだろうか
彼は業火の中で静かに血の涙を流す九尾の姿が重なった見えた。