3 しまでん
> でも、自由って「自分自身のこだわりや、自分自身の思い込みから真に解放されている事」だと思えるんだよね。
僕もまったくそう思う。
自由と対になるのは制約。心に由来する制約、つまり固定観念。
それから環境に由来する制約。
人間は制約がないと生きていけません。誰でも固定観念を持って
います。一方で自由になりたいと思っています。しかし、固定観念
がなかったら、自分が今どこにいるのか、次に何をすればいいのか
さえ分かりません。固定観念があるからこそ、日常生活を送って行
けるのです。
缶蹴りという遊びがあります。鬼が缶を蹴られないように守り、
それ以外の人は鬼に見つからないように隠れます。鬼は隠れている
人を見つけて名前を叫べば、見つかった人は負けになり、缶のそば
に囚われます。鬼が全員を捕らえれば鬼の勝ちです。鬼はまだ見つ
かっていない人を見つけるために缶のそばを離れなければならない
かもしれません。その隙に、まだ見つかっていない人が出てきて缶
を蹴ると、ゲームは振り出しに戻ります。囚われた人は解放されて、
また好きなところに隠れることができ、鬼は引き続き鬼をやり直し
ます。
もしこれが、ルールも何もなく、ただ自由にみんなでそこらをう
ろうろしていたら楽しいでしょうか。
日常生活も同じで、人間は、制約があるからこそ目的を見出すこ
とができ、行動に意義を見出せるのです。
制約に中にもある程度の自由があり、私たちは通常その範囲で次
の行動を決めます。
僕もまったくそう思う。
自由と対になるのは制約。心に由来する制約、つまり固定観念。
それから環境に由来する制約。
人間は制約がないと生きていけません。誰でも固定観念を持って
います。一方で自由になりたいと思っています。しかし、固定観念
がなかったら、自分が今どこにいるのか、次に何をすればいいのか
さえ分かりません。固定観念があるからこそ、日常生活を送って行
けるのです。
缶蹴りという遊びがあります。鬼が缶を蹴られないように守り、
それ以外の人は鬼に見つからないように隠れます。鬼は隠れている
人を見つけて名前を叫べば、見つかった人は負けになり、缶のそば
に囚われます。鬼が全員を捕らえれば鬼の勝ちです。鬼はまだ見つ
かっていない人を見つけるために缶のそばを離れなければならない
かもしれません。その隙に、まだ見つかっていない人が出てきて缶
を蹴ると、ゲームは振り出しに戻ります。囚われた人は解放されて、
また好きなところに隠れることができ、鬼は引き続き鬼をやり直し
ます。
もしこれが、ルールも何もなく、ただ自由にみんなでそこらをう
ろうろしていたら楽しいでしょうか。
日常生活も同じで、人間は、制約があるからこそ目的を見出すこ
とができ、行動に意義を見出せるのです。
制約に中にもある程度の自由があり、私たちは通常その範囲で次
の行動を決めます。
(PC)
4 しまでん
(続き)
僕が考える自由な人というのは、自分が持っている思考の枠組み
(固定観念、常識、など)の範囲を自由に広げたり狭めたりでき、
また枠組み自体を別の場所に移動させることもでき、またいつでも
元の枠組みに戻ってくることもできる人です(玲お姉さまの言うこ
とと同じですね)。
思考の枠組み、フレームとも言いますが、自由にコントロールし
て、大きく考えることもでき、小さく考えることもでき、大まかに
考えることも緻密に考えることもできる。
また、フレーム自体を移動させる、パラダイム・シフトともいい
ますが、いままでとまったく違う体系で世界が見える。
これらを組み合わせることもできる。
いつでも元のフレームとパラダイムに戻ってくることもできる。
つまり、自分の固定観念、制約を外したりはめたりできる人が自
由な人だと思います。
外しっぱなしで戻れない人は、おかしな人と呼ばれます。
僕が考える自由な人というのは、自分が持っている思考の枠組み
(固定観念、常識、など)の範囲を自由に広げたり狭めたりでき、
また枠組み自体を別の場所に移動させることもでき、またいつでも
元の枠組みに戻ってくることもできる人です(玲お姉さまの言うこ
とと同じですね)。
思考の枠組み、フレームとも言いますが、自由にコントロールし
て、大きく考えることもでき、小さく考えることもでき、大まかに
考えることも緻密に考えることもできる。
また、フレーム自体を移動させる、パラダイム・シフトともいい
ますが、いままでとまったく違う体系で世界が見える。
これらを組み合わせることもできる。
いつでも元のフレームとパラダイムに戻ってくることもできる。
つまり、自分の固定観念、制約を外したりはめたりできる人が自
由な人だと思います。
外しっぱなしで戻れない人は、おかしな人と呼ばれます。
(PC)
6 玲@姐御
葉桜さんが最近顔を出してくれないなぁ・・・お元気なのかな?と思っていたところでした。
自由、不自由問題に関わらず、結局は人間としてバランスが取れているかいないか・・かなと思ってます。
最近は、ほんとにバランスの取れていないように見受けられる人が多い・・・。
あたしも気をつけないと。
自由、不自由問題に関わらず、結局は人間としてバランスが取れているかいないか・・かなと思ってます。
最近は、ほんとにバランスの取れていないように見受けられる人が多い・・・。
あたしも気をつけないと。
(PC)
7 しまでん
葉桜さん> 「自由」とか「不自由」とか、そんな事を意識しない状態を所謂自由、融通無碍とでも言うのでしょうか....?
そうではないでしょう。
どんな人でも人間である限り、ものの捕らえ方や感じ方、考え方
に偏りがあるものです。人間は宿命的に偏見を持っているのです。
自分の考えが偏っているのかは、成長して前より大きな視野で以
前の自分を眺めたときにしかわかりません。考えが広がって初めて
「偏っていたな」と気付くのです。
だから、現在の自分がどう偏っているのか現在知ることはできな
いのです。
仮に今、自分が自由だと感じていたとしても、不自由なことに気
付いていないだけです。狭いところから外に出てみないと、決して
知ることはできない、私たちはそういう宿命にあるのです。
自分が自由か不自由か気にしないというのは、自由になること、
成長することを放棄しているようなものです。問題意識も向上心も
なければ、考え方が固定されてしまったり、かえって狭まってしまっ
たりします。頭の固い人とはこのような人です。
人間の成長はひとつひとつ薄皮をむいていくようなもので、ここ
で終わりということはありません。どこまでも幾重にも、むいても
むいてもまだ次の薄皮が待っています。
薄皮をひとつむくごとに、より自由になっていきます。
自由を望むなら、どんなに成長してもまだ理解できない、より大
きな世界や考え方があるのだということを、いつも心に留めておか
なければなりません。
そうではないでしょう。
どんな人でも人間である限り、ものの捕らえ方や感じ方、考え方
に偏りがあるものです。人間は宿命的に偏見を持っているのです。
自分の考えが偏っているのかは、成長して前より大きな視野で以
前の自分を眺めたときにしかわかりません。考えが広がって初めて
「偏っていたな」と気付くのです。
だから、現在の自分がどう偏っているのか現在知ることはできな
いのです。
仮に今、自分が自由だと感じていたとしても、不自由なことに気
付いていないだけです。狭いところから外に出てみないと、決して
知ることはできない、私たちはそういう宿命にあるのです。
自分が自由か不自由か気にしないというのは、自由になること、
成長することを放棄しているようなものです。問題意識も向上心も
なければ、考え方が固定されてしまったり、かえって狭まってしまっ
たりします。頭の固い人とはこのような人です。
人間の成長はひとつひとつ薄皮をむいていくようなもので、ここ
で終わりということはありません。どこまでも幾重にも、むいても
むいてもまだ次の薄皮が待っています。
薄皮をひとつむくごとに、より自由になっていきます。
自由を望むなら、どんなに成長してもまだ理解できない、より大
きな世界や考え方があるのだということを、いつも心に留めておか
なければなりません。
(PC)