1 しまでん
アンサンブルと歌
玲お姉さま> ピアニストさんには申し訳ないのだが、歌い始めたらピアノは殆ど聞いていないので、というか、信じて委ねたのだから、後は任せたぜいって感じか。
吹奏楽や市民オケ、ジャズ・アンサンブルをやっていると、
「相手の音をよく聴きなさい」っていつも言われて、たしかに
大切だと思ってます。
同じパートの 1st の音、ベース・パートの音、パーカッションの
音などに耳を凝らすのが特に大切だと。
クラスの合唱コンクールのときも他のパートの音をよく聴きなさい
って音楽の先生が言ってた。
高校で指揮者をしていたときも、みんなにそう教えて
いたんだけど、ポピュラーの歌手は違うのかな。
深いね。
吹奏楽や市民オケ、ジャズ・アンサンブルをやっていると、
「相手の音をよく聴きなさい」っていつも言われて、たしかに
大切だと思ってます。
同じパートの 1st の音、ベース・パートの音、パーカッションの
音などに耳を凝らすのが特に大切だと。
クラスの合唱コンクールのときも他のパートの音をよく聴きなさい
って音楽の先生が言ってた。
高校で指揮者をしていたときも、みんなにそう教えて
いたんだけど、ポピュラーの歌手は違うのかな。
深いね。
(PC)
3 玲@姐御
非常に難しい問題なんだけど、
全く耳が聞こえなくなるなんてありえないわけだし、聞こえてはいるよ。
でも、あえて耳をすまして「個々の音」を聞いたりはしていないな。
聞いているのは、全体の響きというか、歌手だって楽器の一つだし、音色の一つだから、相手と溶け合って響いているかどうか・・・を感じているような感じ。
感覚の問題だから、説明するのが難しいなぁ
。
そりゃ、リハーサルの時とか、練習中はちゃんと細かく聞いてるよ。
だけど本番の時に、音なんか細かく聞いてたら、自分の世界に入り込めないもん。
本番中の私の仕事は、「ピアノの音を聞く」ではないと思ってるんだけど、他の歌手の人がどう感じているかは、わからないな。
>伴奏によって「見える景色が違う」って表現も聞くよね。
うん、確かに全然違う。自分好みの景色を見せてくれるピアニストさんが合っているのかもしれないし、全然気がつかなかった景色を見せてくれるピアニストさんが合っているのかもしれないし・・・。
その時の気分によるかもしれないし、同じ相手でも、互いに刺激しあって、変化しあう場合もあるかもしれないね。
カラオケでは絶対に味わえない世界だよね。
>五線の音符でなく別の感覚に変換されてるのかな?
楽譜なんて、単なる目安だもんね。聞こえるものを目に見える形にするなんて、所詮むりだし。
面白いよね、同じ楽譜でも弾く人で、全然違う曲になるもんね。
全く耳が聞こえなくなるなんてありえないわけだし、聞こえてはいるよ。
でも、あえて耳をすまして「個々の音」を聞いたりはしていないな。
聞いているのは、全体の響きというか、歌手だって楽器の一つだし、音色の一つだから、相手と溶け合って響いているかどうか・・・を感じているような感じ。
感覚の問題だから、説明するのが難しいなぁ
。
そりゃ、リハーサルの時とか、練習中はちゃんと細かく聞いてるよ。
だけど本番の時に、音なんか細かく聞いてたら、自分の世界に入り込めないもん。
本番中の私の仕事は、「ピアノの音を聞く」ではないと思ってるんだけど、他の歌手の人がどう感じているかは、わからないな。
>伴奏によって「見える景色が違う」って表現も聞くよね。
うん、確かに全然違う。自分好みの景色を見せてくれるピアニストさんが合っているのかもしれないし、全然気がつかなかった景色を見せてくれるピアニストさんが合っているのかもしれないし・・・。
その時の気分によるかもしれないし、同じ相手でも、互いに刺激しあって、変化しあう場合もあるかもしれないね。
カラオケでは絶対に味わえない世界だよね。
>五線の音符でなく別の感覚に変換されてるのかな?
楽譜なんて、単なる目安だもんね。聞こえるものを目に見える形にするなんて、所詮むりだし。
面白いよね、同じ楽譜でも弾く人で、全然違う曲になるもんね。
(PC)
5 しまでん
いま、TBS ラジオの「土曜ワイド永六輔その新世界」を
聞いていたら、パーカッショニストのつとまるさんという
人が出ていました。
その人は、小学校や老人ホームに行って、おもちゃの
打楽器をみんなに渡し、リズム遊びをするという活動を
しているそうです。
小学生は、楽器を受け取るとそれを楽器と思わずにおもちゃ
だと思ってすぐに遊び始めるそうです。老人ホームの
お年寄りは、それを楽器だと思い、つとまるさんのリズムに
合わせなきゃという意識が働いて、つとまるさんがちょっと
変則的なリズムを叩くと「どうしよう!!」とあわてて
困ってしまうそうです。
つとまるさんが言うには、日本の音楽教育は「合わせる」
ことに重点を置きすぎだということです。それは一面正しいの
だけれど、合わせることに意識が行き過ぎると、「合わせよう、
合わせよう」として遊び心や余裕がなくなり、音楽として
つまらなくなるんだそうです。
なるほどなあと思いました。すばらしい演奏家や歌手は、
クラシックでもポピュラーでも、杓子定規にリズムや音程を
合わせたりはしていません。何かしらずれやゆれがあります
(もちろんコントロールを失っているのではなくて、意図的
な)。
考えてみればそうだなあと思いました。
聞いていたら、パーカッショニストのつとまるさんという
人が出ていました。
その人は、小学校や老人ホームに行って、おもちゃの
打楽器をみんなに渡し、リズム遊びをするという活動を
しているそうです。
小学生は、楽器を受け取るとそれを楽器と思わずにおもちゃ
だと思ってすぐに遊び始めるそうです。老人ホームの
お年寄りは、それを楽器だと思い、つとまるさんのリズムに
合わせなきゃという意識が働いて、つとまるさんがちょっと
変則的なリズムを叩くと「どうしよう!!」とあわてて
困ってしまうそうです。
つとまるさんが言うには、日本の音楽教育は「合わせる」
ことに重点を置きすぎだということです。それは一面正しいの
だけれど、合わせることに意識が行き過ぎると、「合わせよう、
合わせよう」として遊び心や余裕がなくなり、音楽として
つまらなくなるんだそうです。
なるほどなあと思いました。すばらしい演奏家や歌手は、
クラシックでもポピュラーでも、杓子定規にリズムや音程を
合わせたりはしていません。何かしらずれやゆれがあります
(もちろんコントロールを失っているのではなくて、意図的
な)。
考えてみればそうだなあと思いました。
(PC)