あかはたともみの”でいり〜赤旗”掲示板

過去ログ399 2009/4/2 11:38

◆絵梨菜
東京
おじゃまします!
友達とかにはえりちんって呼ばれてるからそう呼んでもらえたら嬉しいかも(〃∇〃)
今は21歳だよん♪
ちょっぴりエッチなことに興味アリの大学生(*>▽<*)ゞやっぱりオトナの女とか言われ
てみたいじゃない。
下手だけど自分でデザインして作ったページを
みんなに見てもらいたくって!
アドバイスとか色々欲しいです☆彡良かったら見てくださいね〜
http://fhp.jp/erilink09/
2009/4/2(木)11:38
HP

◆pochidabwoo◆gVRs
埼玉
分離壁
《年越し派遣村》が話題になった時、うろ覚えだが、政府内の副大臣だったか自民党議員の一人だったかが、「日比谷に集まった者らが本当に“首切りにあった派遣労働者かどうか疑わしい”」と言ったと記憶する。それを受けてテレビやラジオのコメンテーターという怪しげな職業の人たちの中からも、同種の発言があった。TBSラジオの番組に出演した派遣村村長湯浅誠氏に、メインパーソナリティーが同種の質問したのは確かなことだった。

湯浅氏の著書(『「生きづらさ」の臨界』)では、氏が現在の貧困と貧困を生む背景を、多くの他者の著書を典拠にしつつ、極めて冷静に分析・判断し認識していることがよく判る。
以下はその一説。
「人びとの『生活の安定』は企業によってはもはや保障されない。企業は利潤を追求する目的集団であり、その目的に人びとの生活の安定は入っていない。企業が関心をもつのは、人間ではなく『消費者』であり、生活の安定ではなく、自分に利益をもたらしてくれる『購買力』である。『働いていれば食べていける』状態の創出は、企業の目的外行為であり、目的外行為を行わせるには“社会”の規制力が働かなければならない。」

それが全体の基本構造である時に、《年越し派遣村》に集まった人たちを、突然首切りされた非正規非雇用者と、破綻した自営業者と、会社が倒産して職を失い、ハローワークに通ったが職が見つからず、そのうちに失業保険が切れてしまった人と、以前から日雇いで働いていたが、日雇いの仕事さえもなくなってしまった人たち(そうした人は元々ホームレスと区別していたと記憶する)とに、寒さと飢えで命の危険がある時に、わざわざ分離することの意味が私にはまったく判らず、むしろ恣意的に《年越し派遣村》に対して政治色を塗り付けるような先の議員の発言は、一般の無知識な人の悪罵と異なる、悪質な行為としか私には見えない。

社会に作られている幾層もの分離壁。それは、私たちの中にそして周囲に、いよいよ圧倒的に高さと厚さを増し、個人を孤独・孤立の世界に貶めていく違いない壁のような気がする。
2009/3/30(月)9:06

◆pochidabwoo◆gVRs
埼玉
愚行
自分を貶め苦しめているものに対して、加担し力を貸すのは自殺的行為に他ならないものだと思います。
しかし、自分を貶め苦しめているそれと闘い、改めさせようとしているものの足を引っ張る行為は、愚かで破滅的と言えるでしょう。
多くの場合、自分を貶めたものと自分の関係性が判らない。貶める側がそう簡単に見つからないように用心している成果と言えるでしょう。
深く考えて欲しくない。感情のまま、現世利益的で楽観的で享楽的なものに目を向け目覚めないで欲しいと、貶めるものは考えている。テレビや週刊誌や雑誌は、考えたくないと思う者に、十分時間を浪費させるようにできあがっている。飛びつきたくなるような「威勢の良い」言葉はいくらでも用意してある。混乱して迷ったら、ただ大声を出せばいい。

だから世間は実に複雑にできあがっている。そんな中で自分の立ち位置を正確に把握することは容易でない。自分の立ち位置を確認する手だてはあるか。
ケータイで検索してみるか? アンケートを頼りにするか? 自分の履歴をもってするか? 所有物の多少でみるか? 性別・年齢でみるか? 流行の本でも読んでみるか?
それとも他人に聞いてみるか、「私はいったい何者で、どこに居るのでしょうか?」。

他者から質問に答えるという方法も有効かも知れない。質問に自分の答えで応じることは、他ならぬ自分と相談をしなければならないから。
「あなたはいったい誰で、何をどうしたいのですか?」と問われると、簡単に一言ふた言では済まないだろう。
生産的行為ではないと思えるだろうが、果たしてそうだろうか? 自分と自分の周囲をみつめることが今こそ求められていることはないと思う。むしろ、あまりにそうしたことを疎かにしてきたのではないか。

山手線を抜けるには、少なくとも途中下車する必要があると判るだけでも、随分に変化だし、それを進歩と言っても差し支えはないのではないか。
2009/3/29(日)18:48

◆pochidabwoo◆gVRs
埼玉
靴について
前日の「靴」について書き足しておきます。
「普通だったらつまらないことですむのに、こごでは問題になってしまうことが無数にある。爪がのびたら切らねばならないが、歯で噛み切るしかない。/便所や洗面所に行く場合は、時、所を問わず、持ち物をみな持ってゆく必要があるし、顔を洗っている時は、膝の間に衣類の包みをはさんでおかねばならない。そうでもしないと、包みは一瞬のうちに盗まれてしまうのだ。もし靴が片方具合が悪かったら、夕方、靴の交換の儀式に出なければならない。そこでは個々人の能力が試される。恐ろしい人混みの中で、自分にあう靴を、一足ではなく、片方、一目で選び出す必要があるからだ。一度選んでしまうと、二度目の交換は許されない。」
とあって、前回の引用に繋がるのです。この場合の「靴」は木靴のこと。

無知識に基づく悪罵は続く。
「非正規の人はなにかというとすぐに、こうして欲しいとかああして欲しいと言うけれど、いい加減にして欲しいわ。甘えないで! 苦しいのはみんな同じ。私だって年二回だった旅行を一回に減らしているというのに」
「仕事! 仕事なんて探せばいくらでもあるは。贅沢さえ言わなければ、たくさんあるわよ」
そう、有効求人倍率は1.0は切っているが、0.0ではない。

年末年始、GW、夏休みの空港や駅の人混みと先の引用の人混みは、人が一杯いて騒々しくしている景色としては似ているのかもしれないが、少しでも近づいたなら、その風体からしても質的にまったく違うもの。しかし、ある人たち、つまりこの場合、「無知識に基づく」人が見れば、混み合った賑わいでしかない。
一方の賑わいは、明るい笑顔でどうやって時間を有効に使おうか、お土産は何が良いかと語らう。他方は、ぶつぶつと文句を言い並べては険しい顔を向ける。「無知識に基づく」人にとって、後者の賑わいは鬱陶しいものでしかない。

そして、「多様な働き方として自ら非正規労働を選んだ人たち」の存在は、「選択能力のない人たちと自分は違う」という救済を他方に与えるのでしょう。この考えは頑に譲らない。何故なら、「自分」の「救済」だから。
したがって同じことを何でも繰り返す。何度も繰り返すことで、より「確信」になりうる「信仰」だから。
2009/3/29(日)9:26

◆pochidabwoo◆gVRs
埼玉
靴に足を合わせること
とある作品の一節。
「靴が重要性を持たないなどと考えてはいけない。死は靴からやって来る。囚人の大多数は、靴から拷問の責め苦を味わう。数時間も行進すれば、痛くなって皮がむけ、必ず化膿してくるからだ。こうなったものは球の上にのっているような歩き方を余儀なくされる。そして常にしんがりになり、いつも帰ってくることになる。追いかけられても逃げられない。足はさらにふくれあがり、ふくれあがればあがるほど、木と布の部分の摩擦が耐え難くなる。こうなると病院に行くしかない。だが「腫れ足」の診断で病院に入るのはひどく危険だ。この病気は直らないことが、みなに、そしてとくにSSには、よく分かっているからだ。」(Primo.Levi『Se Questo E` Un Uomo』直訳的邦題“これが人間か”)

靴を何という言葉に換置するか、同様に、病気やSSを何を置き換えるかは自由。一節だけで想像するのは無理というものに他ならないが、これは経験則から導きだされた結晶的言葉と私は思っている。
靴からやってくる「死」。どう訳したら良いのだろう。「言葉」の翻訳ではなく「意味」の翻訳という意味で。

「あなたは《正社員》ですか、それとも《それ以外》ですか。《それ以外!》、あっ〜、それならもう結構です」
非正規非雇用者は多様な働き方の典型であって、自ら好んだ選択だとする意見は、もはや偶然としか言いようがない非正規非雇用者にまだならないでいる者にとって都合の良い道具としての救いの言葉。
そうした言葉は往々に、何か問題が起こった場合に、非正規非雇用者に対し投げつけられていると見えます。私はそれを「悪罵」の一種に他ならないと思っています。
加えて、貶められている側に貶められたという自意識が希薄なことが、私の内奥に漆黒の影を落とします。
どうやらそれは、何故そこにいることになったのかその仕組みについて、「理解しようとする何か」が欠損していることに由来しているように見えます。自分のことを突き放して、客体として自分を見つめるなどは言うは易いことではあります。無知識。例えば「生活保護」は如何なる条件を満たせば申請できるのか、如何なる法律に基づくものであるかを知らない。
あ〜、理屈を考えると頭が痛くなる。だから、考えたりしないことが懸命な選択になっているのではないか。
暴走山手線は、つまり同じところを回るに過ぎないのではないかと。
2009/3/29(日)0:19

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